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のぞみのブログ

いままで通り、書いていきます。

COMEDY NIGHTを見てきた。なまを見てきた。

コメディを見てきた。

Osaka University Comedy Arts Theatre、略してOUCAT(おーゆーキャット、の読み方でいいんだろうか。阪大の猫、つまりまちかねこ?)の主催する、COMEDY NIGHTだ。大阪大学会館で行われた。

ぼくは27日に観に行った。昼の公演を観に行った。COMEDY NIGHTなのに昼に行っていいんだろうか、とどうでもいいことを考えながら。

 

COMEDY NIGHTは去年から始まった企画だ。実は去年の公演もぼくは観に行っている。というのは、ぼくの友人がこの企画に関わっていたからだ。彼に誘われた。

そしてOUCATの代表の柳川朔を知っていて、会ったことがあるのも、観に行った理由の一つである。

いつ会ったんだったか。でも何だか雰囲気がちがう人だなぁ、という印象は覚えている。ファッションや髪型や体格のせいだったかもしれない。

それから、友人伝いで彼のことを聞くにつれ、ちがう人だとわかってきて、あぁやはり雰囲気がちがっていたのは間違っていなかったんだと、やっぱりと思った。

高校時代は野球部で、4番で主将で、その後大阪大学に進学(うわさだけどトップクラスの成績で入ったと聞いた)して、(紆余曲折あり、というのは詳しくは知らないから)アメリカに渡り、スタンダップコメディ、ミュージカル、等々、本場のコメディを味わう。そして2015年にOUCATを立ち上げる。

人生がここまで見た目に反映されている人間はそういないと思う。そういう彼が見たいのもあって、COMEDY NIGHTを観に行った。

去年の公演は箕面市のメイプルホールで催された。立派な劇場だった。

舞台の上で一人、丸いスポットライトの光を浴びながら朔がしゃべるところから始まり、つづいて、代わって狂言師の由谷さんが舞台に現れた。

声を張って、遠くまで聞こえるような、そしてちょっと甲高い声を出しながら、独特の動きをするのが狂言のイメージであったが、それは由谷さんによれば、おもしろい姿とか動きを類型化していった結果が狂言であるかららしい。長年かけて作り上げていったおもしろい型が狂言なのだそうだ。

だから、COMEDY NIGHT中に何度も由谷さんが現れては狂言を見せてくれるのだが、その度におもしろい。もちろん、プログラムの構成や前後の文脈によっておもしろさが作り出されるとも言えるし、あるいはより要素のおもしろさが増えたり、加工されて一味違ったおもしろさを作り出すことはある。けれども、そういうもの次第でおもしろさが決まるとも言い切れず、要素自体のおもしろさだって必要で、いわば何でも天丼(同じことを繰り返すことで笑わせること)をすればおもしろいかというとそうでもなく、天丼に耐えられるだけのおもしろさがそもそも、それに備わっていなければならないと思う。だから、COMEDY NIGHTでの狂言は、その役割を十二分に発揮してぼくを笑わせてくれた。いわずもがな、今年のでも。

 

できれば公演の全プログラムをここに書いて、ここがこうおもしろかったんだよと言いたい、それよりもここにCOMEDY NIGHTを撮影したビデオを載せて見せたいと思うのだが、それでは観に行った人が報われないし、しかもここでぼくが文章でそれを伝えようとしている甲斐がなくなってしまう。

いや、そもそもここで演劇のおもしろさを伝えられないと、どこかわかっている気もする。というのは、演劇はなまの芸術だとつくづく思っているからだ。

経験したことがなくても考えてみれば、大勢の人の前で何かをするという場に自分を置けば、それ以前にどんなに練習を重ねてどう動くべきか、何を言うべきかわかっていて、さらにどういう順番でどうやって見せるかという構成も完璧と思えるくらい出来上がっていても、アドリブの要素が入ってくる。数えきれない目なのか、それとも座っている時の姿勢か、それとも人の顔自体か、一体それが何なのかよくわからないけれども、人がそこにいるだけで、こちらは人に応じたことをしてしまう。身体意識とか言うべきかもしれないけど、それは身体であって、意識があることはかろうじてわかるけれども、それがどんなメカニズムで動いているのかは細かくはわからない。

筋肉の動きだとか神経物質の移動をつぶさに観察すれば科学的なメカニズムはわかるけども、演劇をする者はそれをいつでも使いこなせなければならない。仕組みがわかっても、その動かし方がわからなければならない。

だから演劇はなまだ。そしてその中でもコメディ、人を笑わせるというのは、なまであることが一番如実に現れるものだろう。

ダウンタウンの松本さんは「笑いはなまもの」と言っていた。その言葉を発した時期と被っているかわからないが、ガキの使いのトークで、アドリブでやっているようなネタをしていたのを見たことがある。深読みだけど、ほんとにアドリブだったんじゃないか。

どんなに練りに練ったネタであっても、その日観に来てくれたお客さんの気分だとか、あるいは演者側の体調だとか、ひいてはその日がどんな日なのか(もしかしたら暴風雨吹き荒れる中やってきてくれたとか、30℃を超える暑い日に来てくれただとか)、もっと言えばその日は戦争中なのか、それで演者もお客さんも顔が引きつっていたのかどうか……きりがないけど、思うのは、完璧な笑いがないということだ。 

いや、逆に戻って、演劇はそもそもそういうものだから、笑いに限ったことじゃない。

ぼくは小説が好きだが、小説なら作者がいる。今はもう作者の手の内に作品があるなんて古い言葉で、言葉こそが小説を形作るのであって作者と作品の関係はそこまで深くないというのが常識だろうけど、ぼくが言いたいのはそうではない。小説には、その作品の言葉を書き記したある存在がいるということだ。それが作者と呼ばれる。絵画にしても同じだろう。あるいは映画では、小説と絵画における、最終的にその人が作りましたと言えるような極点はないだろうけども(監督とも脚本家とも原作者とも言い難い)、それがカメラから映し出されているという、作品が生み出された瞬間、披露された瞬間は決めることができる。

だけど演劇は、いつ完成するのか? とりあえずは初演の時と答えられる。けれどもそれは外形的な事実であって、演劇作品それ自体の完成の時点かというと、頷けない。さっき言ったように、人前で行う以上、常にアドリブの要素がつきまとうからだ。

 

ぼくはコメディの何を見ていたのか? 朔? 当然、彼以外の演者はいた。もちろん、朔が、そして由谷さんが中心人物となってCOMEDY NIGHTが演じられていたが。

彼らが舞台の上で中心的な役割を演じていたとしても、他にも舞台の上には人がいたわけで、ぼくはそれを見ていた。それぞれがそれぞれの役割を演じて、二人の振る舞いを支えたり、舞台上で進行する物語に欠かせない一つの要素としてちゃんと成り立っていた。関わっていたぼくの友人も少ない時間であるが舞台に上がっていた。彼は上演中の裏方の仕事だとか広報とか制作の仕事をメインにしていたし、演劇は経験したことがなかったけれども、舞台の上で役割を演じていた。

または、舞台上の進行に合わせて音楽が流れたり、プログラムの合間に、次のプログラムの準備による時間を埋めるための映像が流れたり、その度に照明をつけたり消したり照らす場所を変えたり、スクリーン上に映す英語字幕を作ったり、その裏には、それぞれの役割を担っていた人がいた。

当日もらったパンフレットにはCOMEDY NIGHTに関わった人びとの紹介が載っていた。読むと、英語教育事業に携わっていたり、原子核構造にまつわる研究をしていたり、写真と映画学を学んだり、ドイツ語音声学を専攻したり、京セラドームでフェスを開催したり、ニュージーランドの企業で就労経験したり、青少年非行防止自作ビデオコンクールで優秀賞を取ったり、パンフレットから抜き出しただけだが、こういう人々がいたことがわかる。

結局、ぼくはコメディを見ていたし、彼らを見ていた。舞台上にいた人は目に入っていた。それ以外の見えなかった人々は、役割としてそこにいた。だから聞こえたり感じたりしていた。

演劇はだから、演じる芸術、役割が組み合わさってできる芸術なんだろう。

だからこそ、ぼくには小説とか映画のように作者とか表現された時点があるものに比べて、演劇が苦手であり、翻って、なまを味わうことにいつもと違う楽しみを覚える。ぼくはよくDVDとかでお笑いのコントとか漫才を見たりするが、何度も言われていることだろうけど、画面越しの笑いと目の前の笑いはやはり違う。違うとしか言えない。だから、ここでその二つの何が違うんだと言われて、いやね、こうこうこういう違いがあるのだから絶対観に行った方がいいよと言っても、もしそれをこれから書いてしまったら、それこそ画面越しのやり取りに過ぎない。

結局、身も蓋もない言い方だが、観るしかないのだ。なまだから。

 

今週末には東京での公演が控えている。だからネタバレを避けて、上演されるコメディのおもしろさをあまり具体的に言わない方がいいし、さっき言ったみたいに、書いたところでどうも的外れの評価をしてしまいそうで、なまを伝えられるか不安だから、書かないと思うのだが、 それではCOMEDY NIGHTそれ自体の魅力を伝えてない気もする。

 

要は何が言いたいんだと思っている方のためにまとめれば、観に行ってみてほしい。理由は別になんでもいい。コメディが見たいでも狂言が見たいでも友人がいるからでも。きっと、予想は裏切られる。だってなまなのだから。最後に味わうのは常になまだから。