のぞみのブログ

いままで通り、書いていきます。

批評ができない。恋愛のように。――『〈批評〉のトリアーデ』――

『〈批評〉のトリアーデ』を読んだ。図書館に行くたびに目について気になっていた本。實重彦と柄谷行人中上健次に、秀実と渡部直己と江中直紀がインタビュー、加えて後者三人による前者三人の批評という、贅沢にも程があるようなラインナップ。現代批評オールスターズ!スマッシュブラザーズのようなもの、俺などが参戦すればすぐさま100%越えでふっとばされる。残機0。

 

中でもスガ(漢字変換むずいのでこれでいく)さんの柄谷行人論がおもしろかった。3章以降の特に柄谷さんに関する部分は、それに関する知識が俺に無さ過ぎるのでついていけなかったけども、前半、というか書き出しからしておもしろい。

「批評は恋愛に似ている。」

それからのめり込んだ。

スガさんは批評と恋愛を重ね合わせる。

「相手を恋い焦がれながらも、永遠になすすべもない余計者の意識にさいなまれて今を生きている者の、無為の営みに似ている。恋する者とて、この恋を成就するための手練手管の幾つかを知識として知らぬわけではないが、今のこの恋にあっては、かつて有効であったかも知れぬ様々な手法も、何ら効果を発揮するとは思えない。万が一この恋愛が成就したとすれば、彼はその体験を反芻して新たな手法をわがものとしたことを確認するか、あるいは旧来の手法が今回も効を奏したことを知るだろう。けれども、それらの認識は全て事後的なものだ。その時、恋愛はすでに終わってしまっている。恋愛のただなかにおいて、恋する者は全てを奪われているのだ。しかも恋する者は全てを奪われながらも、はっきりと目覚めている。恋愛は心地よいまどろみの体験ではない。目覚めながらも全てを奪われた不自由のゆえに、恋愛は『苦しい』ものなのだ」。

好き過ぎて引用し過ぎた。

正直、俺にはこの引用だけで恋愛、つまり批評の本質を言いつくしてしまったと思えてしまう。けれどもスガさんの論を追う。

ある作品の前に立った時、批評はその明証さにたじろぐ。それまでその作品が属していたはずの空間から、歴史から切り離されて、今目の前にその作品、言うまでもなくすばらしい作品が眼前にあることに、批評は黙るしかない。

そんなこと言わずに冷静になって、なんでこの作品はすばらしいんだろう、どうすればこんなにすばらしくなるのか、と考え始めたが最後、その作品はみるみる落ちぶれる。こんなシーンがある、こんな描写がある、こんな表現がある。でも、それはこの作品だけが持つものだろうか? 似ているどころか同じものを持っている作品は図書館にいくらでもいるだろう。そんな風に、あいつのくりくりした目が好きだ、と思っていたけれども、ググればもっとくりくりした目はいくらでも出てくる。やっぱ巨乳なところがいいよなと言うならば、18禁の暖簾をくぐればいい。

開き直って「そんな風に理想の女チェックリストを組み立てるのもありかも」と批評はひとりごつ。いつかは白馬の王子様、二次元の向こう側から彼女がやってくるかもしれない。そう、いつか……ね……。

結局、我慢できずに恋愛に手を出すのが批評なのだ。すべてのチェックリストに✓が入ったところでくそおもしろくもない。その時はきっと新たなチェック項目を探すのがオチだ。俺は目の前のすばらしい作品に出会いたいのだ。

だがしかし、作品の前で批評に何ができるというのか? いくら俺が作品にすばらしいとラブコールを送ったところで、作品はうんともすんとも言わない。クール系どころじゃなくツンデレのデレが抜け落ちたとも違う、というかこっちのラブコールにそもそも気付いていないのだ。それどころか、その人に贈ったはずの告白は、いつの間にか違う恋人を生み出す。私はあなたが好きです。なぜなら優しいから。/それならば、あなたは私が好きなのですか? それとも優しい人が好きなのですか?

 

こんな馬鹿馬鹿しい事態があるか!

そう、批評と恋愛は、いつも馬鹿馬鹿しく感じてしまう、俺には(特にそれを行う視点からでは)。届きもしない声をあげて何がしたいのか。いくら呼びかけても応答はない。ていうか聞こえてる? 不安。ぶっちゃけ、この文章だってスガさんの批評を批評しようとしたから、不安で不安でたまらなく、ちょいちょいうすら寒いボケをかましておどけて不安をまぎらわすしかなかった。スガさんの論を追ったところで、それは、彼女が好きです、なぜなら目が二つあるからです、と言っているようなものだ。そこで、うまくスガさんをかみ砕いて自分の言葉で説明しようとするけれども、それはやはり自分の言葉であって彼女の言葉ではない。彼女はどんどん自分の言葉から遠く離れてゆく。

つまるところ言いたいことなど一つしかないのだから。「好きです」

、ってなんつーふつうの言葉! そんなもん誰でも言えるわアホ! じゃあもっといい言葉は? えぇと……あ、なぜこの作品はすばらしいのか考え始めてしまった。

「恋する者が『あなたを愛している』と相手に伝えようとしても、それがあまりに陳腐な言葉であり、決して相手に届かないと知っているように、批評も『作品』を前にして本当の気持ちを告白することができない。『あなたを愛している』というのが最も切実に伝えなければならないメッセージであるにもかかわらず、である。」

こうして俺は、ただスガさんの言葉を提示することしかできない。僕の彼女はこの人ですと紹介する、ほぉこの人かと彼女を眺める。で? 彼女の魅力はこれっぽっちも伝わらない。

本当は「いやぁ、○○って本当にいいもんですね~」としか批評は言えないのかもしれない。

 いや、もう一度前を向くこともできる、がしかし、「批評が『作品』の外にあるという酷薄な事態は〔中略〕堕落と頽廃に誘おうとする。〔中略〕相手をものにしようとする誘惑である。相手の外にいるからこそ、われわれはそれをものにしようと思うのだし、ものにできるのだとわれわれは考える。〔中略〕これを男根的欲望とも、あるいはメタ言語的欲望とも名づけることができよう。」

私は彼女とセックスをした。

それで?

✓が一つ増えた。

 

それで、どうしたいの?

 

「溺れるはずのない浅瀬で溺れてみたいという誘惑にひたりきること、そして間違って死んでみたりもするかも知れぬそうした遊戯こそが、批評と呼ばれ、恋愛と名づけられるべきだろう。」

 

「しかし、『作品』の全体はついに批評にとって明かされぬままである。それは、恋する者にとって決して相手の全存在が開示されえないのと同じだ。そもそも、全体など存在するのだろうか。しかも、『作品』も恋の相手も、決して完璧でないことは、醒めた意識があらかじめ前提としているのである。」

 

やっぱり、俺はスガさんに告白することはできなかった。スガさんの一挙手一投足を挙げたところで、どこに好きな理由があるというのか(そもそもここでとりあげたのは4章の内のほぼ第1章のみに過ぎず、一挙手一投足も挙げ切れていないのだけど)。

途中、思ったことを全部なげやりに喋ってもみた。でもそれは、彼女がいないところで「こういうところがいいんだよー!」と叫ぶことだ。虚しさしかない。

歴史的、空間的に彼女を置く。いきつくところは、あなたが存在することがすばらしい、ということ。それは人として最高の褒め言葉かもしれない。だけど、それで、あなたはどうしたいの?/別に。「あなたが好きです。ということは、あなたがいるということなのです」と言いたかったのです。

一体、どうやって告白するべきだったのか。いや、そもそも告白のための言葉ってあるのか? 言葉はいつも違うものばかり作る。それは好きな人じゃないって! 俺がいいたいのはあなたなのだ。/で、あなたって私のことなの? 私は私なのに? 私以外私じゃないの。/じゃあ、俺は私が好きです。/けっきょく、あなたは自分のことが好きで好きでたまらないのね。

だから、俺は批評に向いていないと思う。あなたが好きすぎるから。もちろん、批評を読むのはとても好きだ。めちゃくちゃよく出来たラブレターを読ませてもらったということだから。世の中には告白をうまいことする人間がいる。「よろしくお願いします」でも「ごめんなさい」でもどっちでもよく、とにかくよくもまあこう上手く言葉に出来たもんだと感心する。

それでも批評に落ちてしまうのが人間であり俺であろうけれども。批評は盲目。

 

参考文献:大澤真幸『恋愛の不可能性について』

 

 

 

 

 ほぼ2年ぶり。久々。書きたいことがあった。