のぞみのブログ

いままで通り、書いていきます。

人生を小説のように眺めること――「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述

 ツイッターを眺めていたら偶然流れてきた、「「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述」を読んだ。

 

 事件そのものはここ1年ほど報道され続けてきたので、その概要は省略するとして、まずはこの意見陳述書の内容をまとめる。

 被告人の渡邊博史は実刑を受け入れることを認めている。ネット上で言われているような、不正な取り調べ、渡邊氏の国籍に関する憶測は間違いであると主張。

 犯行の動機として、「社会的安楽死」を求めている時に、自分の欲しかったものを全て持っている「黒子のバスケ」の作者である藤巻忠俊氏を知り、はるか上の地位にいる彼に一太刀を浴びせようと「人生格差犯罪」を企てた。

 ただ客観的に見た動機と主観的なそれにはズレがあると主張。自分は生まれつき罰を受けており、そのせいで何かに燃える経験をしてこなかった。罰を課した「何か」の代わりとして「黒子のバスケ」を見つけ、その犯行に自分は初めて燃えた。

 逮捕された際に「負けました」と言ったが、あれは自分の人生をギブアップしたという意味。また報道写真に笑顔で写っていたのは、「何か」に罰され続けてきた自分がとうとう統治権力によって罰されることになったことに対する自嘲によるもの。

 この犯行に対して反省も謝罪もする気はない。それなら初めからやらない。謝罪するとしたら、極限状態で謝罪しなければ意味がないと思う。しかし責任は取りたい。それは金銭的損害を負うという意味で。だが今回の犯行による金銭的被害は自分では負いきれない規模であり、そうであれば自分は死ぬしかない。犯人が死ぬことで被害を被った方々の「感情の手当」をしたい。

 自己中心的な理由としても自殺を望んでいる。犯行動機が露呈したことの恥ずかしさ、人生の負けの確定から考えても今すぐにでも死にたい。

 社会復帰するつもりもない。出所したらすぐに死ぬつもり。自分みたいなのが社会復帰しては絶対にいけないし、それを許す甘い社会であってはならない。

 話が少し変わるが、言論の自由への挑戦としてこの犯行を捉えた論評を見かけたが、それは目的ではない。ただこの件が書店に対する脅迫事件で立件されないかもしれないのはおかしい。これは出版史に残る大事件だと思う。

 量刑には不服。半分冗談、半分本気だが死刑を望む。明け透けに言えば「こんなキモい奴は死刑でいいじゃないですか!」という気持ち。

 これからの日本には格差から生まれた妬みを理由にした犯罪が増えるだろう。それを防ぐためにも、自分を「成功者の足を引っ張ろうという動機は利欲目的と同等かそれ以上に悪質」という論理で断罪してほしい。せめて社会に役に立つような形で自分は罰されたい。

 今の日本の刑事司法には自分を罰する方法はないと思う(法律がないといった意味に限らず、刑務所に入って更生するなどの余地はないだろうということ)。刑務所の居心地も悪くなく、趣味、社会的地位、家族、恋人など、娑婆に対する未練もない。命も惜しくない。失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」と言い、これからの日本にはこの「無敵の人」が増えるだろう。日本は対策を考えるべきだ。

 自分は刑罰に処されるべき。客観的には大したいじめも受けていないし、虐待も躾の範囲に収まるものだろう。だが「責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法」をやめることはできない。自分にはなにもない。「死のみが社会奉仕」という言葉がぴったり当てはまる。

 今回の事件は出身である地元の進学校のOBに冷や水を浴びせた気分。最後に率直な感想を言えば、「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」。

 

 これが概略である。私が簡単にまとめたものなので、粗雑な文になっている箇所が多い。実際に陳述書を読むことを薦める。(僕はこちらで読みました→ http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/

 

 端的に言って、彼はこの陳述書を通して自分の死をひたすら意味あるものにしようとしているように思う。始めから終わりまで、自分の死をなるべく大きなもののために使われることを懇願しているように見える。出版史的にも、現在の司法制度的にも、社会の格差から生まれる犯罪のためにも……ただ彼は大義名分のために死にたいのだろう。ただ自分が死ぬということに、彼は耐えられなかったのでは。

 こういう考えが成り立つのも、偏に彼が人生を完結させたかったからだろう。「下の者が上の者を倒す」、このもはや常識と言っていいほど私たちの生活に浸透している物語に沿って渡邊氏の人生の物語は語られている。「罰」によって彼は生まれながら人より劣った地点から人生を始めざるを得ず、その「罰」を与えた「何か」に一矢を報うために彼は「燃え」た。彼が「燃え」ることができたのは、この現代では批判の入れどころのない物語のおかげだろう。

 批評家の大塚英志は『キャラクターメーカー』(星海社新書、2014)のあとがきでこの事件に言及している。大塚は逮捕時の渡邊被告の笑顔を見て、この犯行が彼の自己実現の物語ではないかと推測している。笑顔それ自体の解釈は渡邊被告の証言と違っているとしても、自己実現の物語という目的は的中していたと言えるだろう。

 まさに渡邊被告はこの犯行を通して自己実現する快感を得ていたのではないか。それゆえに「燃え」た。犯行を通して自分の存在が明確していくのを実感していたはずだ。

 彼はどうすれば良かったのか。そう考えずにはいられない。彼の人生を見る視線が私たちのものとそう違わないがゆえに、さらにそう感じる。大学進学を目指してひたすら勉強する学生、貧困撲滅のためにボランティア活動にいそしむ大学生、第一志望の企業に就職するために走り回る就活生……彼らと同じ列に渡邊被告は立っている。内容の違いはあれど、その構造はほとんど同じだ。

 私は彼の異常なほどの自らの人生の客観視に注目したい。彼は自分の生きる人生を客観視することができた。自らの人生にも関わらず、「ギブアップ」「負けた」と相対的に眺めている。社会的に自分の人生が底辺であるとも認めている。そして自分の人生を完成させようとしていた。彼はひたすら、自分を罰することを求める。それによって自分の人生の幕を下ろしたいかのように。自分の物語の結末を飾るように。被害者のため、今の日本の司法制度のため、「無敵の人」のため、……自分の死を意味あるものとして使ってほしいと、何度も懇願している。さらに言えば、謝罪に異常なほどの内面の徹底ぶりを求めている事も関係あるだろう。人生の終わりに大きな意味を求めている。お世辞にもそれまでの歩んだ道のりとは相応とは言えない、大きな意味を。

 だが、「自分の人生を客観視する」、これほど矛盾に満ちた行動があるだろうか。どうあがこうが、人間は自らの人生の外に出ることはできない。いかに客観的に見ることができたと思っても、それは人生の物語として表出しているだけだ。

 人生を物語として見る。これも今や常識と言ってもいいほど当たり前のことだろう。だがそこには危険が潜む。

 ちょうど最近読んでいたベンヤミンの『物語作者』(ベンヤミン・コレクション2、ちくま学芸文庫、1996)に、この事件に当てはまるのではと思う箇所があった。

 ベンヤミンは物語と長編小説(ロマーン)を区別する。ロマーンは物語とは違い、孤独の中から生まれるものであるとし、「長編小説を書くとは、人間の生の描写において、他と通約不可能なものを極限にまで推し進めることにほかならない」。その生の充溢を描写することで、長編小説は生きる者が陥っている途方に暮れた状態を表す。「「生の意味」は、事実、それをめぐって動く中心となるものである。しかし生の意味を問うとは、途方に暮れた状態であることの分かりやすい表現にほかならない」。そしてその生の意味は、小説中の登場人物の死から見て初めて解明される。つまり長編小説の中心にある生の意味は、人物の死、もしくは終わりを以て初めて現れる。

 まさにこの、ベンヤミンが述べたロマーン的思考と言うべきものに、渡邊被告の人生観は支配されている。自分には何もなく、それゆえに何も失うものがない。だからこそ人生をロマーン的に考えやすい。途方に暮れているのだから。そして後は述べたとおり、死もしくは終わりを以てロマーンを完結させるだけだ。彼にとってはそれは自殺、あるいは断罪だった。

 ここまでわかり易過ぎるくらいロマーン的、いやもっと普遍的に、小説のように自分の人生を眺められたこと。それがこの事件の原因だったのではないか。

 大したいじめも虐待も受けていないと彼は認めている。実際、彼に何もなかったはずはない。何も失うものがなかったと一概に言えるはずはない。微かにでも自分が持っているもの、失いたくないものがあったはずなのだ。それが小説のように人生を眺めてしまったせいで、ことごとく無視されたように私には思える。

ツイッターでちょっと見かけた言葉で、前後の文脈は見ていないのだが、この三島の言葉もロマーン的に思える。長編小説の主人公、もしくは語り手は弱者であった方が都合がいい。何も持たない者であればあるほどいい。物語が発動しやすくなるから。「自分に欠けているものを求める」という典型的物語に身を委ね易い。

 しかし、ロマーン的に人生を眺めても、それは人生をもとに自分で作り上げた小説でしかない。人生そのものではない。やはり人生は、生きるしかないのだ。語るものではない。死を以て人生を終わらせたいとしても、考えてみれば、死んだら意識がなくなるのだから、終わりの瞬間など誰にもわからない。「あ、終わった」と思うこともできずに死ぬ。どんなに客観的視点、メタ的視点に立とうともこれは避けては通れない事実だろう。

 惜しむらくは、誰も彼に小説の終わらせ方を教えられなかったことだ。前掲の『キャラクターメーカー』の中で大塚は、自分をキャラクターとして象ること、また自己実現の物語を自らこしらえることの重要性を説いている。私はそれには賛成だ。しかしそれはサブカルチャーの域を出ない。差し詰めの自己の隠れ家を作るのには有効だろうが、それを超えたロマーン的自己を解決する手段にはならないだろう。そのためには物語の終わらせ方、「-了ー」の後にどうしても残ってしまう自己の処理方法が必要だ。「その後はあんたの言っている通り、生きるしかないじゃん」と言われたらそれまでだが。

 

 余談だが、やはり司法制度を死ぬ手段と考えるのは明らかに間違っているし、そうあってはならないと思う。司法の第一の目的は社会秩序を守ることであって、それに死を以て奉仕したいというのはおこがましい。「秩序を壊すことが秩序を強化する」、そんな論理はまかり通してはいけないだろう。彼が司法に求める成功者云々の論理よりも。

 彼によれば日本にこれから増えるであろう「無敵の人」、そしてその可能性を秘めている人に言いたいのは、死は終わりではないということだ。終わりと表現する権利を持っているのは死ぬ当人ではなく、周囲の人物だ。繰り返しになるが、あなたは死ぬ時に「死ぬ」とは感じないし、そう思うことは不可能だ。そして服役を社会的死と捉えてもいいが、刑務所内でも生きていかなければならないのだ。生きることは終わらない。人生に区切りをつけても、やはり私たちは生き続けるしかないのだから。

 

(それにしても、どの時点で大塚さんは気付いていたのだろう。自己実現の物語だということに。怖いくらい渡邊被告の意見は物語的だった。

興味がある人はぜひ『キャラクターメーカー』のあとがきだけでも読んでみてほしいと思います。星海社からは最近出た本なのでまだどこの本屋にも置いてあるはず。物語の創作論としても読めるし、アイデンティティイデオロギーにも関連して読める本です)