読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

のぞみのブログ

いままで通り、書いていきます。

論理的にしゃべる男の虚しさ ―『愛のおわり』―

『愛のおわり』(パスカル・ランベール作、平田オリザ日本語監修、平野暁人翻訳)をナレッジキャピタルで見てきた。大学生の特別優待が設けられていたので通常の半額という安さで見ることができた。財布にもうれしいし、初めてオリザさんの演劇を生で見るので少し緊張もあったが、値段のおかげで気楽に見れた。

いただいたパンフレットによるとオリザさんとパスカルさんは親しい友人のようで、経歴もとても似通っている。二人とも同じく劇作家なのはもちろん、プライベートでも同年に離婚の経験があるそう。しかも結婚相手の職業が女優ということまでいっしょという重なり。偶然にしてもすごい。はっきりと書かれているわけではないが、この『愛のおわり』はパスカルさんの離婚経験が元にされている様。全く同じと言ってもいい境遇を経験したオリザさんは、『愛のおわり』の台本の修正作業の際に幾度も寂しさを感じたらしい。確かに他人事とは言えなかっただろう。正直僕もタイトルを見た時から他人事では無かった。まあこの話は今は置いておく。

 

あらすじはというと、観ていない人の楽しみを削がない程度に言えば、男女の別れのもつれ話である。しかし単純なもつれ話ではない。いや、言ったばかりで否定してしまうが、大きな目で見ればもつれ話なのだが、舞台上の男女の間には数えきれないほどの糸が絡まり合っていて、観客は単純なもつれ話とは思えないだろう、ということ。別れ話ということはどちらかが別れようとし、片方は残されるわけだが、その区別は言葉ではっきり言われるわけではない。観ていれば何となく二人の関係性が見えてくるのだが、この『愛のおわり』のセリフは関係性を何度も何度もひっくり返す。「あれ、そうじゃなかったの?」といった疑問が何度も出てくるのだが、最後まで見ていると、関係性が二つのものの間にあるものではなくて、ただひたすら回転し続けるもののように思えてくる。ぐるぐるぐるぐる、もしかしたら人によっては、「これって別れ話だったっけ?」と感じる人もいるかもしれない。

 

この戯曲の特徴に、男女の発話がはっきり区別されていることがある。それぞれセリフはとても長く、会話というよりは語りの応酬であり、男女の発話がはっきり区別されている。

劇の筋とは関係ないが、この発話の明確な区別のおかげで、観客の反応がよくわかった。ここから書くことは他人の私事に口出すようで申し訳ないが、それでも言いたいことなので許してもらいたい。ごめん。

僕の両隣は若い女性が座っていたのだが、やはりというか、男女の別れ際の話をしているわけなので、男のセリフがひたすら続いていると次第に両隣の女性が腕組みをし始めた。両脚は椅子の近くにそろえて止めたまま。舞台上を見る僕の目の端にはしっかりと、長いセリフを言い続ける男の顔をじっと見つめたままの顔が見えた。絶対に怒っているだろうなと直感した。そして今度は代わって女側のセリフの番になるのだが、すると組まれたままだった腕は自然に解けて、次は僕の前列に並んでいる中年と見える男性たちがどことなくそわそわしだした。背筋を正したり、首を傾けたり。ああ、きっとこういう言い合いは今までの人生で何度も、いや今も家庭で経験してるんだろうな、と勝手に妄想した。決して僕も傍観者でなく、女性側のセリフを聞いている時は正直、正座して聞きたい気分だった。「はい……はい……すいません……そうですね、確かにそうです……あっまだ話続くんですね……はい……」。頭はずっと上がらなかった。

 

 上の男女の反応からちょっとわかるかもしれないが、『愛のおわり』は男女の語り方の違いを嫌と言うほど前面に出している。いかに男と女は異なった語りをするか。

男は自分の本心を抽象論で囲い込み、喩え話で女を追い詰めようとする。戦い、血、関節、乳房……。しかし、男からしたら具体的な話をしているつもりなんだろうが、それは本心を取り囲む抽象論から生み出された例であって、二人の現場に必ずしも当てはまらない。女を目指して発されたはずの言葉は身体にも心にも当たらない。まさに心が動かせない。舞台上には二人の演者が立っているはずなのに、男の言葉は少しも女に届くことなく空間を虚しく漂うだけなので、いつの間にか男が一人芝居をしているようになってくる。きっと彼の中にはちゃんと一つの道が見えているのだろう。しかしそれは先に見える到達点から逆算するように今の足場まで無理矢理引っ張ってきた道であり、実際は道といえるものなどなく、二人の間にあったはずのありとあらゆる記憶の糸が絡まり合っている。何の理由づけも、補足説明も加えずに、本心といえるものが望む行動をひょいとしてしまえたら男はどんなに楽かと思う。それができずに男はひたすら壁のような抽象論を論理的に語る。しかし、厳密に、論理的に語れば語る程、男はどんどんアホらしく、弱々しく、虚しくなっていく。男の唯一といっていい武器が恋愛ごとでは全く意味をなさなくなる。

女は上記のことを最初から見抜いていたかのように、まずは男の的外れな語りを封じ込める。お前の抽象論はひとつも当たっていないし、喩え話は何一つ私には当てはまらないと言ってのける。そして男のその論理的な口調も非難する。感情が抑えつけられているその語り口を。感情のままに女は言葉を続けるが、それは感情論といった言葉が意味するような支離滅裂な論ではなく、むしろこの恋愛の場では感情論ほど論理的で説得力のある話はない。恋愛の舞台上ではある意味、もっとも客観的な見方になる。また、「恋愛の舞台上」と今表現したが、ここには二つの意味がかかっている。一つは『愛のおわり』を演じる舞台の上ということ。話の筋からいって恋愛の舞台と表現するのは正しい。もう一つは、恋愛一般の比喩としての舞台である。実は劇中でそのようなことを示すセリフがいくつか出てくる。登場人物として二人はそのことを踏まえているし、作者のパスカル・ランベールも、日本語監修をした平田オリザもおそらくこのメタの意味をわかって作品に込めているのだろう。いわば舞台の上では男は一から脚本を作っていかなければならない。登場人物、状況、セリフ。恋愛の劇を演じるためにありとあらゆる設定を自分で組み立てる。しかし一方女性は、まるで事前に台本を受け取っていたかのように演じる。たとえ舞台経験がなくとも、大まかな筋や基本的な演技論は踏まえている。それに乗っ取って恋愛を演じればいい。

 

舞台の上でお互いの本心がぶつかり合う。しかし本心からの行動は決して単純明快ではない。自分の思うがままに動くこと、それが頭では分かっていようと現実ではどれだけ実行し難いことか。明確なすることがあって、それを達成するのに困難があるということとは違う。すること自体が明確ではないのだ。『愛のおわり』は確かに別れ話だ。しかし二人は本当に別れようとしているのか? そういう疑問が自然と浮かんでくる。論理的に説得しようとしたり罵詈雑言を浴びせずに、別れるなら別れればよいのに、なぜ言葉を交わし合うのか? 別れたくないから。別れる行動のことを指してるわけではなく、心理的に、精神的に別れたくないからということだ。今ここで、二人の恋愛関係が解消されることを、二人が別れることなく、今まで通り続いてきた道の上に起こしたい。だから二人は話す。論理的に語る。罵倒する。二つの意味が重なっている「別れる」の言葉を巡って二人は言葉を交わし合うのだ。そのために二人の関係はこの二つの意味を行ったり来たりする。相手を突き放すようでいて、自分と相手の距離はどんどん近づいていく。舞台上の動きでもそれははっきりわかる。別れ話をしている二人の距離は決して一方的に別れることはなく、近づいたり離れたりの繰り返しだ。二つの意味の間で右往左往する姿がはっきりと現れている。

 

それにしてもどうして、男は別れることに意味を持たせたがるのかと思う。言葉を増やすほどに別れること自体から離れていくようになる。むしろ逆効果で、別れについて語れば語る程、相手に執着していってしまう矛盾が起こってしまう。どうも、今そこの、二人がいる場のみの話ができない。夢やら本当の自分やら、何かしら大義名分を立てないと決断ができない思考なのか。女のように、恋愛と一体になったような振る舞い方ができたら夢のようだろう。男は全く使わないと思うが、女は「運命の人」という表現を使う。この運命も、恋愛における戯曲のようなもので、女は運命という言葉からいくつもの物語を瞬時に作りだして、それに沿うことができるように見える。

 

最後に一つ、フランスでも日本でも、恋愛ごとにおける殺し文句は同じだ。決して相手を惚れさせるのでなく、文字通り死に至らしめるような言葉。まずは「あなたは、自分が一番好きでたまらないのね」。ぜひ「愛のおわり」について悩んでいる女性がいたら、この言葉を使ってみてほしい。確実に男性は膝から崩れ落ちるだろう。抽象論や具体例が全てあんたの範囲をこれっぽっちも出ていないのよ、全部保身のためよ、と嫌というほどわからせることができる。もう一つ。男性が覚えていないような些細な行いを羅列する。「いっしょに公園行ったよね、私は早起きして、サンドイッチ二つと、キャベツとシーザードレッシングのサラダ(これほどまで具体的な方がよい)作って、あなたが1時間後に起きてきて、寝ぼけながらカボチャのスープをすすって――」どんな些細なことでもいい。二人でそれをしたという単純明快な事実ほど別れ際の男の精神をずたずたにするものはない。恋愛の意味しかこめれられていない行動に男は手も足も出ない。抽象化しようがないのだから。つまるところ、こういう状況で女性が発する言葉はすべて、生身の拳とは比べ物にならない打撃を与える。