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のぞみのブログ

いままで通り、書いていきます。

『「であること」と「すること」』と「なること」

週一ペースで更新すると言っておきながら、二週間近く空いてしまった。やっぱり飽きっぽい性格はまだまだ残っているようで。それでも言いたいことはけっこう溜まってきているので、これからはペースを保って続けて行こうと思う。

 

今回は内容より上のタイトルが先に思い浮かんだ。厳密に言うと「なること」でないが、語感が良かったのでこれに決めた。

『「であること」と「すること」』は丸山真男の『日本の思想』に掲載されている作品である。日本の高校での国語教科書で数多く採用されていると聞く(僕は桐原書店の現代文の教科書で読みました。[平成21年度版])。僕の高校時代の国語教師によると、自分の高校時代から教科書に採用されているらしく、長年高校生に読まれてきた文章である。講演会での話を基にしているため、文章が評論ほど堅苦しくなく話し言葉も交えて書かれているので読みやすい。

 

内容はというと、核心だけを言えばタイトルだけで足りる。「であること」よりも「すること」に価値がある、ということ。現代の土台となっている近代社会では「であること」から「すること」へと価値の重きが移っていった。かつては日本の江戸時代のように、大名や武士という役割であることが重視され、その中心的な役割に沿ってすることが生まれてくると考えられていた。大名らしく、武士らしく振る舞うことで生活することができた。しかし近代に入り政治や経済の分野で分業が進むにつれて、一つの役割だけでは生活に対処できなくなっていく。例えば会社の上司として、あるいは家庭で父として、というようにその場その場で役割を切り替えなければいけなくなってしまったのである。すると単に偉い役割であることには価値が無くなっていき、それぞれ分化した役割の上で何をするかに価値が与えられていく。今挙げた会社に限らず、社会のありとあらゆる場面ではすることによってその人の偉さは決まっていくようになり、業績によってその人の価値が考えられるようになったのだ。

しかし、日本ではこの「であること」と「すること」の価値の倒錯が起こっている。その例として住居の変化と休日の過ごし方が挙げられる。「であること」の象徴でもある床の間や客間よりも、「すること」を反映した台所・居間の方がより重視されていく。また休日は文字通り休む日であり、「であること」を本質に持つはずなのに(「休む」ということは何か「して」いるんじゃないかとも言えなくもないが、何もしていないのだから「であること」の方が近い)、むしろ休日こそ何かをする日と考えるようになっている。これらの例は現在でも当てはまるだろう。この文章のもとになった講演が行われたのは1958年だが、50年以上たった今でも住居は使いやすさや生活の効率性で選び、休日は何かをすることで埋め合わせるようにしないと不安になるというような人がいると思う。

 

 現代でも十分通用する「であること」と「すること」の概念であるけれど、今はこれに加えて「なること」に価値を与えているように思う。「であること」と「なること」の二つの価値を組み合わせた結果、「なること」の価値が生まれたのではないか。

それを最も体現しているのが、目標を立てるという考えだと思う。誰もが義務教育が始まって以来、しきりに目標を立てることを迫られてきた。小学校だったら将来の夢、今学期の目標、夏休みに達成すること、等々。中学校に入れば成績の目標、テストで何点取るだとか通知表に4を多くしたいなど。高校受験が近くなればどこの高校に行きたいのかと目標を聞かれる。高校に入学しても、学ぶ内容の質は上がるがやはり中学の延長線上のまま、勉強の目標を立てさせられる。その先には人生でも一二を争う大きな目標、大学受験が控えている。生活の全てを一つの目標にささげるような時期だ。

こうして目標を立てることが骨身に染みてくる。何にしてもまず目標、つまりは何になりたいか、どうなりたいかを常に頭に置いていなければいけないように考える。理想を未来に置いて、その途中に自分がいなければ気が済まないようになる。

 

そこから周りの人々も、まず何になりたいかでその人を判断していることが多いと思う。「会社の社長になりたい」とか「研究者になりたい」とか、社会的に価値があるとされている役割になろうとする人もいれば、「ほんの小さな会社だけどそこに就職したい」、「社会のために大学で勉強を頑張る」という人もいる。目標とするもの自体の価値も確かに考慮はされるだろうが、それよりも目標に対する態度の方がその人の価値に影響を及ぼすはずだ。結果よりも過程、努力の度合いで判断する。ここは「であること」と「すること」に近い。しかし目標が意識されていることを加えると、「すること」より「なること」に価値が置かれていると思う。何になろうとしているのか、そして今まで努力して何になったのか、それが大切なこととされる。

 

 また学校の話に戻るが、学校の中で書かせられる文章も「なること」の価値をよく表している。テストや何かしらの行事が終わる度に「それを踏まえての目標」や「これから生かしたいこと」を文章にさせられる。常に未来を見る・教訓を得ようとする態度を叩きこまれる。学ぶことがないと許されないと思うようになる。

学校生活で身に付けさせられた文章の書き方はその後も大きな影響を及ぼすはずだ。必ず最後は目標・教訓を書いて締めないと落ち着かない。この書き方は相当表現力を限る力をもっていると思う(現にこの文頭部分でもこの書き方を使っているし)。

 

きっと、学ぶ態度からも「なること」の価値が生まれてきたのかもしれない。古来から海の向こうを見続け、なんとかして日本の中に組み込もうとしてきた日本人のお国柄である学ぶ態度がこの価値をゆっくりと作ってきたのではないか。

 

こういう学ぶとか目標の考えに僕は高校のころから嫌だと思い始めた。学ぼう、教訓を得よう、なりたい理想を立てようとすると、常に自分がどこか道の途中にいる気になってくる。あそこまで行ってみようと目標を立てて、その目標の場所までたどり着いても、すぐに次の目的地を見つけろと急かされる。そしてまた目標を立て……。終わりがあるようでない道を延々歩かされる。いつまでも終わりの満足感が得られないのが我慢できなかった。そうは言っても、とりあえずの目標を達成した喜びで満足すれば道中楽しくもなるだろう。そんなもんだ、人生の旅は意味も何もない、自分らしく、楽しく、今を生きればいいじゃないか……。未だにどうも判然としない。

 

「なること」の価値は今の社会に深く浸透している。そこから派生している現象は数多くあると思う。それらについてはまた別の日に書きたい。無理矢理だがここで文章を終わる。

 

 

(ほんとは、目標とか教訓とかじゃない、良い文章の終わり方がわからないので強引に切りました)