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のぞみのブログ

いままで通り、書いていきます。

「僕たちが今日、世に出すことのできる一行一行は……

そろそろ大学で自分が研究する対象を決めないといけなく、どうしようかとぶらぶら図書館で本を眺めていて、それとなく手に取った本をめくってみたら1ページ目に書いてあったのがこの言葉。

 

「僕たちが今日、世に出すことのできる一行一行は――それを委ねる未来がどんなに不確かなものであろうと、――闇の力から戦い取った勝利なのだ。」

ヴァルター・ベンヤミン Walter Benjamin

(1940年1月11日、ゲルショム・ショーレム宛の手紙)

ハワード・ケイギル他 『ベンヤミン』久保哲司訳、ちくま学芸文庫、2009年。

 

哲学書なんてそこに書いてある内容は8割方理解できないのが常。これを書いた人はほんとに誰かに伝える気があるのかと疑問を持ってしまう(僕の場合そういう本読んでると10回以上「ちょっと何言ってるかわかんないです……」てつぶやきます)。初めて見る横文字のオンパレードに文法がちょっと狂っている文章。いつのまにか自分が文字の上でずっと迷子になっているようになる。どうやっても現実に帰れない。

 

それでも哲学書を読むのをやめないのは、このベンヤミンの言葉のようなとてつもない言葉に出会うことがあるから。たった一言が、それまでの訳の分からん文字で満たされた頭にバットで殴ったような衝撃を与えてくれる。もやもやが一気に吹っ飛び、ものすごい爽快感をくれる。僕はそういうとき勝手に頭の中で好きな音楽が流れ始める。便利な機能を僕は持ってると思う。最初にドラムが聞こえてきて、ベース、ギターと入ってきて、ボーカルの声で一気に響きあう。自分の中では哲学の衝撃とパンクロックの激しさはほぼ同じもので、同じリズムで鳴り続けるドラム、耳を抉ってくるような歪んだギター、深いところで黙々と響かせるベース、どれも僕の中では哲学と同じものだ。

 

この言葉はそこまで哲学よりな言葉ではないかもしれない。それでも文学部という、文字とひたすら向き合うことを使命としている場所にいる身としては座右の銘としてもいいものだ。どんな文字もそれを書いた人が暗闇の中で戦って必死に生み出したもの。暗闇を少しでも照らそうと作った光。でもそれはすぐに消える。一瞬明るくなったかと思えばすぐに暗くなる。そしてまた照らそうと文字を作ろうとする。僕はそういう光を集めたい。そして作りたい。誰にでも見える明るい光でなくて、遠く細やかに輝く光でもいい。たぶんそういう光は迷って迷って仕方ない人には見える光だと思うから。

 

これから就活を経て社会に出ていくことになると思うけど、どんな形であれ文字には関わっていきたい。というか文字に関わることが僕のできる唯一といってもいいことだ。これはメディア関係の仕事につくと限って言っている訳ではなくて、仕事とは別にしても、こういうブログなどで光を作り続けられたらと思う。エッセイ、小説、批評、評論、戯曲、脚本、ルポ……挙げればきりはないが。

ベルトコンベアーの先にはゴミ箱はありません

今回は特に伝えたい内容なので、先に言いたいことを書きます。ベルトコンベアーの先にはゴミ箱はありません。あるのは洗浄です。

 

僕は大学の学食でアルバイトをしているんですが、先日食器の洗浄の仕事をしていた時にけっこうひどいことがありました。

うちの学食だと、食べ終わった後の食器は返却口へ持っていって、そこにあるベルトコンベアーにお盆ごと乗せてもらうようお願いしています。箸やスプーン、レンゲは設置してある専用容器に入れてもらうようにしています。その他のゴミは近くにゴミ箱が置いてあるのでそこに捨てます。

 

しかし、ベルトコンベアーから流れてくるお盆に箸などの食器類やゴミが紛れていることが多々あります。紙ナプキンが置いたままだったり、小鉢を包んでいたラップが丸めたまま残っていたりしています。ベルトコンベアーの先では運ばれてきた食器を大型洗浄機にかける作業が行われていますが、一度通すだけでは落ちない汚れもあるので一旦軽く水洗いしてから洗浄機にかけています。意外に手間がかかっているんです。コンベアーが流れるままに食器が洗われるわけじゃありません。そのため流れてくるお盆にゴミが残っていると、ゴミをいちいち捨てる手間が増えてしまうのです。大学の学食なので洗わなければならない食器の量は半端じゃないです。その負担を少しでも減らしたいので、ゴミはゴミ箱の方へ捨てるようにお願いしています。

 

だけど先日、上に書いたことの真逆を目の前で見ました。ベルトコンベアーから流れてきたお盆の上には、いくつかの食器に加えて、カップ麺の容器と調味料の袋がありました。容器の中にはスープが入ったまま。閉店間近の時間帯だったためお盆がどんどん流れてくる中だったので、処理に一苦労しました。

 

単に洗浄場には機械だけがあって全自動で洗浄している訳じゃありません。人の手が必ずあります。食器を洗うのはさっき書きましたが、その食器をまたカウンターに戻すのも人の手でやっています。ベルトコンベアーの先にはなんでも処理する万能機械ではなくて、人間の手があるだけです。ゴミ箱は確かに置いてありますが、それは生ごみ処理がメインのものです。学食で働く一員として言いますが、食堂で食器を返すときは自分の家の台所に食器を置く気持ちで置いてほしいです。

 

余談ですが、ベルトコンベアーには他にもいろんなものが流れてきます。食べ残しはもちろんですが、元の7、8割を残したままで流れてくることもあります。そんなに残すならどうして頼んだのか……。自分の家の流し台と同じです。過度に残すのは避けて下さい。

 また時々、食堂で使えるプリペイドカードや財布が流れてくることもあります。すぐに気づいて「すいません、カードいっしょに流しちゃったんですけど……」と言いに来てくれる人もいますが、その日の内に回収しに来ない人もいます。一番困るのはまず流してしまった本人だと思うので、食器の返却の前にお盆の上に忘れ物がないか確認してほしいです。

 

『「であること」と「すること」』と「なること」

週一ペースで更新すると言っておきながら、二週間近く空いてしまった。やっぱり飽きっぽい性格はまだまだ残っているようで。それでも言いたいことはけっこう溜まってきているので、これからはペースを保って続けて行こうと思う。

 

今回は内容より上のタイトルが先に思い浮かんだ。厳密に言うと「なること」でないが、語感が良かったのでこれに決めた。

『「であること」と「すること」』は丸山真男の『日本の思想』に掲載されている作品である。日本の高校での国語教科書で数多く採用されていると聞く(僕は桐原書店の現代文の教科書で読みました。[平成21年度版])。僕の高校時代の国語教師によると、自分の高校時代から教科書に採用されているらしく、長年高校生に読まれてきた文章である。講演会での話を基にしているため、文章が評論ほど堅苦しくなく話し言葉も交えて書かれているので読みやすい。

 

内容はというと、核心だけを言えばタイトルだけで足りる。「であること」よりも「すること」に価値がある、ということ。現代の土台となっている近代社会では「であること」から「すること」へと価値の重きが移っていった。かつては日本の江戸時代のように、大名や武士という役割であることが重視され、その中心的な役割に沿ってすることが生まれてくると考えられていた。大名らしく、武士らしく振る舞うことで生活することができた。しかし近代に入り政治や経済の分野で分業が進むにつれて、一つの役割だけでは生活に対処できなくなっていく。例えば会社の上司として、あるいは家庭で父として、というようにその場その場で役割を切り替えなければいけなくなってしまったのである。すると単に偉い役割であることには価値が無くなっていき、それぞれ分化した役割の上で何をするかに価値が与えられていく。今挙げた会社に限らず、社会のありとあらゆる場面ではすることによってその人の偉さは決まっていくようになり、業績によってその人の価値が考えられるようになったのだ。

しかし、日本ではこの「であること」と「すること」の価値の倒錯が起こっている。その例として住居の変化と休日の過ごし方が挙げられる。「であること」の象徴でもある床の間や客間よりも、「すること」を反映した台所・居間の方がより重視されていく。また休日は文字通り休む日であり、「であること」を本質に持つはずなのに(「休む」ということは何か「して」いるんじゃないかとも言えなくもないが、何もしていないのだから「であること」の方が近い)、むしろ休日こそ何かをする日と考えるようになっている。これらの例は現在でも当てはまるだろう。この文章のもとになった講演が行われたのは1958年だが、50年以上たった今でも住居は使いやすさや生活の効率性で選び、休日は何かをすることで埋め合わせるようにしないと不安になるというような人がいると思う。

 

 現代でも十分通用する「であること」と「すること」の概念であるけれど、今はこれに加えて「なること」に価値を与えているように思う。「であること」と「なること」の二つの価値を組み合わせた結果、「なること」の価値が生まれたのではないか。

それを最も体現しているのが、目標を立てるという考えだと思う。誰もが義務教育が始まって以来、しきりに目標を立てることを迫られてきた。小学校だったら将来の夢、今学期の目標、夏休みに達成すること、等々。中学校に入れば成績の目標、テストで何点取るだとか通知表に4を多くしたいなど。高校受験が近くなればどこの高校に行きたいのかと目標を聞かれる。高校に入学しても、学ぶ内容の質は上がるがやはり中学の延長線上のまま、勉強の目標を立てさせられる。その先には人生でも一二を争う大きな目標、大学受験が控えている。生活の全てを一つの目標にささげるような時期だ。

こうして目標を立てることが骨身に染みてくる。何にしてもまず目標、つまりは何になりたいか、どうなりたいかを常に頭に置いていなければいけないように考える。理想を未来に置いて、その途中に自分がいなければ気が済まないようになる。

 

そこから周りの人々も、まず何になりたいかでその人を判断していることが多いと思う。「会社の社長になりたい」とか「研究者になりたい」とか、社会的に価値があるとされている役割になろうとする人もいれば、「ほんの小さな会社だけどそこに就職したい」、「社会のために大学で勉強を頑張る」という人もいる。目標とするもの自体の価値も確かに考慮はされるだろうが、それよりも目標に対する態度の方がその人の価値に影響を及ぼすはずだ。結果よりも過程、努力の度合いで判断する。ここは「であること」と「すること」に近い。しかし目標が意識されていることを加えると、「すること」より「なること」に価値が置かれていると思う。何になろうとしているのか、そして今まで努力して何になったのか、それが大切なこととされる。

 

 また学校の話に戻るが、学校の中で書かせられる文章も「なること」の価値をよく表している。テストや何かしらの行事が終わる度に「それを踏まえての目標」や「これから生かしたいこと」を文章にさせられる。常に未来を見る・教訓を得ようとする態度を叩きこまれる。学ぶことがないと許されないと思うようになる。

学校生活で身に付けさせられた文章の書き方はその後も大きな影響を及ぼすはずだ。必ず最後は目標・教訓を書いて締めないと落ち着かない。この書き方は相当表現力を限る力をもっていると思う(現にこの文頭部分でもこの書き方を使っているし)。

 

きっと、学ぶ態度からも「なること」の価値が生まれてきたのかもしれない。古来から海の向こうを見続け、なんとかして日本の中に組み込もうとしてきた日本人のお国柄である学ぶ態度がこの価値をゆっくりと作ってきたのではないか。

 

こういう学ぶとか目標の考えに僕は高校のころから嫌だと思い始めた。学ぼう、教訓を得よう、なりたい理想を立てようとすると、常に自分がどこか道の途中にいる気になってくる。あそこまで行ってみようと目標を立てて、その目標の場所までたどり着いても、すぐに次の目的地を見つけろと急かされる。そしてまた目標を立て……。終わりがあるようでない道を延々歩かされる。いつまでも終わりの満足感が得られないのが我慢できなかった。そうは言っても、とりあえずの目標を達成した喜びで満足すれば道中楽しくもなるだろう。そんなもんだ、人生の旅は意味も何もない、自分らしく、楽しく、今を生きればいいじゃないか……。未だにどうも判然としない。

 

「なること」の価値は今の社会に深く浸透している。そこから派生している現象は数多くあると思う。それらについてはまた別の日に書きたい。無理矢理だがここで文章を終わる。

 

 

(ほんとは、目標とか教訓とかじゃない、良い文章の終わり方がわからないので強引に切りました)

【またまた映画】『バタフライ・エフェクト』【またまたネタバレ】

夏休み恒例の怠惰と連日のゲリラ豪雨で、特にすることもこれといったやる気も思いつかない今日この頃。なのでまたまた、映画を見てぼんやり楽しむことにした。雨の晴れ間を狙って駅前のツタヤに走って借りてきた。今回は『バタフライ・エフェクト』。

 

記憶に関する物語ということは聞いていた。記憶をテーマにした作品では以前ノーラン兄弟の『メメント』を見たことがあって、その物語性を前面に押し出した話に大興奮した。同じく記憶モノのこの作品も絶対面白いだろうと期待していた。タイトルの「バタフライエフェクト」=カオス理論も興味を存分にそそる。

 

ストーリーはとても複雑で、簡単に言おうとするとどうしてもネタバレをせざるを得ない。しかしここはそれを押し切って堂々とネタバレ込みのあらすじを書きたい。この映画の主人公は実は、自らの記憶を書き換えることができる。自分に不都合な記憶、他人を不幸にしてしまう記憶を片っ端から変えていこうとする。しかし記憶を変える度にどこかで不都合が起こったり、誰かに不幸が襲いかかってしまう。何度も何度も書き換えを繰り返し、遂に主人公はひとつの決断をする……。

 

記憶を書き換えと現実との対照は当然発生するものだと思われる。どんなに都合よく記憶を変えても実際の世界とつじつまが合わなければ意味がない。だからこの映画の序盤では、観客は記憶と現実のすり合わせがテーマのように思うだろう。いかにして主人公は現実という真実をつかんでいくのか。しかし徐々に、映画全体がいわば主人公の頭の中のみで進行していることがわかってくる。彼は現実とのすり合わせなど根っから考えておらず、ひたすら記憶を自分にとって最高のものに作り変えようとしているのだ。誰も不幸にならない楽園を目指す彼の姿は悲哀に満ち満ちている。あちらが幸せならこちらは不幸に、ひたすら角が立ち続ける。どんなに頑張っても誰かが不幸になる。しかし彼は何度も何度も記憶の奥底にもぐり込んでいく。

 

話が盛り上がっていくほど、序盤に抱いていた「現実」の問いはもはや意味を成さない。現実は記憶と対照的に存在するものではなく、記憶それ自体に変わる。彼にとっては書き換え続ける記憶こそが現実なのだ。

 

この映画のエンディングは複数用意されていた。レンタルDVDには別の二つのエンディングが、セルDVDにはディレクターズカット版のエンディングが用意されている。僕が見たのは当然レンタル版なので二つのエンディングを直に見たが、セルDVD版は申し訳ないがネットでネタバレを拝見した。どのエンディングにしても、結局彼の「現実」は記憶のままで、記憶の中でストーリーは終わっていく。

 

先日見た『ジョニーは戦場へ行った』もこの主人公と同じように、自分の意識のみが現実となっている。しかしこちらは微かながら現実と通じ合うことができている。窓から当たる陽の暖かさや自分を看病する看護師の肌などが映画内で描写されている。それと比べると『バタフライ・エフェクト』は主人公の意識以外をすべて切り捨てているので『ジョニー』よりも絶望的な状況だ。ひたすら自分の内部に閉じ込められたまま、記憶だけをこねくり回す世界。救いのなさは随一の映画だ。

 

ただ気になるのは、同じく記憶モノの『メメント』と比べて『バタフライ・エフェクト』の場合、主人公の右往左往ぶりが少し鼻につくことだ。とにかく誰も不幸にならない、自分の思い描く通りの「現実」を作ろうとする主人公は、見方によればただの甘ちゃんにもなってしまう。とにかく優し過ぎる。劇中にも出てくるが、まさに神のみぞ為し得ることをしようとする主人公は、最後まで記憶を楽園にすることに情熱を傾け続ければまだ甘ちゃんではなかったが、ラストに近づくにつれて精神が崩壊していくのが明らかだ。終盤でついに主人公も自分が記憶を書き換えているだけだったことに気付くが、その後彼は

すべてを初めに戻してしまう(これはどのエンディングにも共通すること)。ここで彼がむしろ開き直って、記憶を書き換え続け理想の「現実」を追い続ける決断をしたらただの優し過ぎる男ではなかっただろう。ここが唯一気にかかったところだ。

 

メメント』の場合、その特殊な物語構成によって観客は最初から主人公の行きつく結末を知っている。しかし主人公は、妻を殺した犯人に復讐するという最終目的ははっきりしているものの、記憶が10分しか持たないという特殊な障害によって自分がいかにして今の状況に陥っているのかはわからない。僅かなヒントを手掛かりに犯人を追う主人公だが、実は彼は犯人を既に自らの手で殺しているのだ。しかしこのことには最後まで気付かない。彼は犯人を殺すという憎しみを抱えたまま、何度も何度も犯人捜しを繰り返しているだけだったのだ。『メメント』の主人公も『バタフライ・エフェクト』と同じく記憶の中に閉じ込められたままである。しかしこちらは最後まで、そして映画が終わった後も「犯人を殺す」という理想の「現実」を追い続ける。幸か不幸か、記憶が十分しか持たないという障害のおかげで。

 

メメント』ももちろん救いのない映画と言える。しかし自らの意志のみを支えに、たとえその結末がバッドエンドだとわかっていても進む『メメント』の主人公の方が『バタフライ・エフェクト』のそれよりも魅力的だと思う。

 

上で書いた二つの作品はどちらも記憶モノで救いのない物語であるが、記憶モノはむしろコメディに使いやすいのではないかと思う。片思いのあの子と付き合うためにひたすら記憶を書き換え続けたり、ある秘密を守るために必死で記憶を改ざんしたりする。しかしどうしてもつじつまが合わなかったり、あちらを立てればこちらが立たずで主人公は振り回され続ける。どうも『ドラえもん』あたりで既にやられてそうなネタではあるけど、もっと大きく映画の一つのテーマとして扱ってもいいのではないかと思う。

【ちょっとネタバレしてます】最近見た映画【ご注意を】

ということで早速書こうと思うんですけど、まずは最近見た映画について。ふと見たい映画があったことを思い出してツタヤに直行して借りてみると、無意識なのか、どことなく似た映画を借りてきてました。これから映画の話していくんですけどたぶんネタバレするのでご注意を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一本目は『saw2』。

あのsawです。グロイと話題の。1は実は実際に見てないんですけど、ネットでネタバレを見たので結末は知ってました。いやしかしネタバレ文章を読んでもあの衝撃はすごかった……。なので2から見ることに。

 

見る前は、たぶんグロさに耐えられず途中で見るのやめるだろうなぁ、ぐらいに思ってましたけど、意外に全部見通せました。グロ耐性ができてたんでしょうか。でもやっぱりキツイ場面も。一番キツイなぁと思ったのは、針地獄に人がつき落とされた時です。神経ガスの解毒剤を手に入れるために、針のついた注射器で埋め尽くされている穴の中から、本物の解毒剤と脱出口の鍵の入っている注射器を探すというもの。当然その場の誰も穴に入りたがらないんですけど、脱出口は制限時間内に鍵で開けないと二度と開かなくなってしまうようになっています。そこで埒が明かないと思った男が女を穴に突き落としてしまうんです。悲鳴を上げる女。体中に張りが突き刺さる。女も覚悟を決めて、激痛に耐えながら針の山をかき分けます。やっとのことで正解の注射器を見つけますが、あと少しの所で脱出口は閉ざされてしまいます。リアル針地獄に潜ったにも関わらず、結局進展はなし……。痛さもそうですけど虚しさもキツイです。

 

映画全体を見てみると、むしろグロイ拷問はストーリーのテンポを保つ補助みたいなもので、メインはやはりストーリーだなと思いました。劇中に出てくるジグソウの「人間の本質を確かめたい」の言葉がこの映画、というかsawシリーズ全体に通じるテーマに思えます。人間はどこまで生きようとするのか。たとえ火の中でも、目玉をえぐれと言われても、針地獄に飛び込めと言われても(これ全部マジで映画の中で実行されます)、生きようとするか。極限状態でそれを試すジグソウの考えは少し分かる気はします。僕も人間の本質を見てみたいですけど、ジグソウほど生に限定するのはやり過ぎな気が。確かに生きるために人を蹴落とすのも人間ですけど、なんでもない日常で(演戯にしろ)助け合うのも人間だと思うので、ジグソウのように生に関することだけを本質に限定したくはないです。

 

二本目は『エクスペリメント』。実際にあった事件を元にした映画です。その事件はスタンフォード大学で行われた刑務所を模倣した実験で、その結果2名の死者を出してしまったことで今は心理学界ではこの実験は禁止されているそうです。

 

こちらもsawに似て極限状態が舞台の作品。ちょっとストーリーを書きます。新聞に載せられていた実験の被験者募集記事を見て集まった男たち。彼らは刑務所を模した建物に連れて行かれ、そこで看守と囚人に分けられる。そこで二週間、実際の刑務所のように過ごすよう命じられる。ルールは簡単なもので、暴力行為の禁止、囚人は許可なく看守に触れてはいけない、などリアルの刑務所を再現するためのもので、このルールを守って二週間過ごせば報酬がもらえる。ルール違反が発覚した場合は建物内のブザーが鳴り実験は中止される。かくして実験は始まったが……。

 

意外なのかやっぱりなのか、看守はどんどん囚人に対してひどい仕打ちをしていくようになります。実験開始前は「楽に報酬を受け取ろうぜ」と和気あいあいとしてた被験者たちですけど、看守と囚人に分けられるだけで、どんどん看守と囚人らしくなっていきます。暴力行為禁止とされてますけど、そのスレスレの屈辱行為を囚人に与えてもいきます。

仕舞にはもろ暴力を振るってしまうんですけど、なぜかブザーは鳴らない。それをいいことに看守はさらに暴力を加えていく。ブザーが鳴らないことで看守陣はどこか許された気になって、暴力に歯止めがきかなくなっていくのは怖かったです。ブザーではなく、自らの倫理観で「暴力をやめよう」と言う者が少なかったのが印象的です(看守の中には一人「暴力やめよう」と言い出した人もいたんですけど、彼は看守にリンチされて口封じに)。

こんな状況なので(まぁお決まりと言うか)、囚人たちは暴動を起こし看守に反抗します。もう収拾がつかないほどもみくちゃに殴り合いになってしまうんですけど、そこで遂にブザーが鳴ります。そして建物の出口のシャッターがゆっくりと上がっていく。

このラストシーンはけっこうお気に入りです。正直ここまでのストーリーは刑務所を舞台にしたものならまぁベタなストーリーかな、という感じだったんですけど、『エクスペリメント』が違うのは、それが全部実験、いわばうそであるということ。当事者たちもそれを最初はわかってたはずなのに、徐々に本物の看守と囚人のようになっていっていしまう。最終的には殴り合いになるけど、そこで実験が終了してしまう。

模擬刑務所から解放された被験者たちは、これ以上ない虚無感に襲われた顔をしてます。さっきまでマジの殴り合いをしていたのに、急に「はいおしまい~」と、舞台の幕を閉じられた感じです。あの殴り合いはなんだったのか、あの時の自分はほんとに自分だったのか? 自分の二面性をまざまざと見せつけられた被験者たちは、ぼんやりしたままバスに乗せられてそれぞれの家に帰っていきます。

というふうに、これもまた人間の本質を試す映画でした。観終わった後、実際の実験はどんな感じだったのか気になってネットで調べてみました。映画はやはりエンタメなのでちょっと話盛ってるところあるだろうな、と思ってたんですけど……調べてみると実際の件の方が映画以上にえぐかったです。映画の方が可愛いもんでした。

 

実際の実験だと、まず被験者たちは自宅からパトカーで刑務所まで連行されます。リアルな状況を求めてここまでする徹底ぶり。さらに被験者たちは綿の一帳羅に頭にストッキングを被せられます。もはや実際の刑務所を超えた囚人への侮辱行為です。看守側は囚人たちの反抗を阻止するために、巧みな手段で囚人間の仲間割れも引き起こします。

しかも、これが一番怖いかもしれませんが、実験の責任者であるジンバルド博士は看守の虐待行為を黙認していたのです。ルール違反をしているのは明確なはずが、その状況に飲まれて博士自身も歯止めがきかなくなっていたそうです。

こちらが参考ページ→ http://x51.org/x/06/04/2439.php

 

三本目は『ジョニーは戦場へ行った』。このタイトルは最初、ブルーハーツの「ラインを超えて」という曲の歌詞で知りました。ツタヤをぶらぶらしてた時に偶然同じ名前の映画があることを知って、見ようと思ってました。

舞台は第一次世界大戦の時代。ジョニーは戦争に徴兵されるが、そこで爆撃を受けて目、鼻、口、耳、四肢を失ってしまう。しかし脳と心臓は機能しているので、思考と触覚のみを残されたままジョニーは生き続けることになる。

映画では四肢を失ったジョニーを軍部が看病するシーンと、ジョニーが自らの記憶を辿るシーンが交互に表れます。軍部はもはやジョニーに思考能力が残されていないと判断して、ひたすら彼を延命させることだけをします(映画内では明確に言われてないんですけど、たぶんジョニーのような凄惨な被害を生み出してしまったことを隠すために、彼が自然に死ぬことを待っていたんじゃないかと思います)。ジョニーは看病されるシーンの中で声だけで出演します。考えていることがそのまま声で表現されてます。最初は自分の四肢や顔のほとんどを失っていることに気付かず、軍が自分の身体を解体しようとしていると思うんですが、徐々に爆撃でそれを失ったことが分かっていきます。ただただ生き続けることしかできないジョニーは次第に死ぬことを望んでいく。

 

これも前の二つと同じく極限状態のお話ですね。こちらは人為的にそういう状況に置かれたというよりは、もっと規模の広い戦争によって引き起こされた極限状態です。劇中で看護師が軍部に向かって「あなたたちが彼を生み出したのよ」の言葉は象徴的だと思います。反戦のメッセージももちろんですけど、思考と触覚のみを残されたジョニーの絶望感も僕は印象的です。できることと言えば記憶を思い出したり、かすかな触覚から自分の置かれている状況を想像するくらい。ジョニーの視点に限ってこの映画を見れば、デカルトの水槽の脳、もしくは胡蝶の夢を地で行くような作品です。あるのはジョニーの思考のみ。状況を想像すると上述しましたけど、実際のシーンではジョニーはちゃんと四肢も顔も完全にある状態で想像の中に表れています。現実ではそうではないんですけど、想像の中ではまだジョニーは四肢を失う前の身体だと自分を思っているわけです。この現実と想像のずれが生々しく、ジョニーの救いのない世界を表しています。

 

 

というわけで、最近見た三つの映画を紹介しました。無意識にだと思うんですけど、どれも極限状態がテーマの作品でした。人間のギリギリの姿、普段は見れない人の悪意、そこで必死にもがく人々、などなどえぐいけど自分に重ねて考えざるを得ない話なので、興味湧いた人は見てみるといいと思います。見たことある人は感想をコメントでくれたらうれしいです。 みんなどんなふうにこれらの映画を見たのか知りたいので。

 

 

※実はもうひとつ映画を借りてました。『パルプフィクション』。これは極限状態がテーマじゃないんですけど、あのタランティーノ監督の名を知らしめた名作と言われている作品です。映画界でおそらく初めて時系列シャッフルを取り入れた作品とも言われています(この作品で時系列シャッフルの手法がメジャーになったとも)。内容はというと……四つの話がそれぞれ絡み合う作品で、ちょっと簡単には説明できません。感想としては、時系列シャッフルにはお決まりの「あっ、ここでそれが繋がるのか!」の快感はありましたけど、そこまでおもしろいとは思いませんでした。どちらかと言うと玄人向けの映画だと思います。細かいところに着目してみると意外な発見もあるんでしょうけど、あんまり僕にはわかりませんでした。ただ好きな登場人物がいて、その人はマフィアの一員なんですけど、クリスチャンの気がある人なんです。だから毎回誰かを殺す前に、聖書のある一節を暗唱してから殺します。「聖書を読む悪役」ってけっこういいワルだなぁと感じました。正義と悪が入り混じったような怖さが絶妙です。

 

ブログはじめました。

ブログを始めてみました。前々から考えてることを書こう書こうと思いながらも一歩を踏み出せずにいましたけど、そろそろ腰を上げることにしました。

きっかけの一つに、友人の引越しで知り合った先輩がこのはてなブログをやっていて、記事を見るうちに「俺も書きたいなぁ」と思ってきたのもあります。なんというか、自分をはっとさせてくれる新しい視点をくれる内容が多くて、「俺も誰かをはっとさせたいな」とお決まりの我も我も願望が起こったので書くことにしました。

ちなみにこの方→ http://umeboo.hateblo.jp/

 

早速書こうと思います。