のぞみのブログ

いままで通り、書いていきます。

COMEDY NIGHTを見てきた。なまを見てきた。

コメディを見てきた。

Osaka University Comedy Arts Theatre、略してOUCAT(おーゆーキャット、の読み方でいいんだろうか。阪大の猫、つまりまちかねこ?)の主催する、COMEDY NIGHTだ。大阪大学会館で行われた。

ぼくは27日に観に行った。昼の公演を観に行った。COMEDY NIGHTなのに昼に行っていいんだろうか、とどうでもいいことを考えながら。

 

COMEDY NIGHTは去年から始まった企画だ。実は去年の公演もぼくは観に行っている。というのは、ぼくの友人がこの企画に関わっていたからだ。彼に誘われた。

そしてOUCATの代表の柳川朔を知っていて、会ったことがあるのも、観に行った理由の一つである。

いつ会ったんだったか。でも何だか雰囲気がちがう人だなぁ、という印象は覚えている。ファッションや髪型や体格のせいだったかもしれない。

それから、友人伝いで彼のことを聞くにつれ、ちがう人だとわかってきて、あぁやはり雰囲気がちがっていたのは間違っていなかったんだと、やっぱりと思った。

高校時代は野球部で、4番で主将で、その後大阪大学に進学(うわさだけどトップクラスの成績で入ったと聞いた)して、(紆余曲折あり、というのは詳しくは知らないから)アメリカに渡り、スタンダップコメディ、ミュージカル、等々、本場のコメディを味わう。そして2015年にOUCATを立ち上げる。

人生がここまで見た目に反映されている人間はそういないと思う。そういう彼が見たいのもあって、COMEDY NIGHTを観に行った。

去年の公演は箕面市のメイプルホールで催された。立派な劇場だった。

舞台の上で一人、丸いスポットライトの光を浴びながら朔がしゃべるところから始まり、つづいて、代わって狂言師の由谷さんが舞台に現れた。

声を張って、遠くまで聞こえるような、そしてちょっと甲高い声を出しながら、独特の動きをするのが狂言のイメージであったが、それは由谷さんによれば、おもしろい姿とか動きを類型化していった結果が狂言であるかららしい。長年かけて作り上げていったおもしろい型が狂言なのだそうだ。

だから、COMEDY NIGHT中に何度も由谷さんが現れては狂言を見せてくれるのだが、その度におもしろい。もちろん、プログラムの構成や前後の文脈によっておもしろさが作り出されるとも言えるし、あるいはより要素のおもしろさが増えたり、加工されて一味違ったおもしろさを作り出すことはある。けれども、そういうもの次第でおもしろさが決まるとも言い切れず、要素自体のおもしろさだって必要で、いわば何でも天丼(同じことを繰り返すことで笑わせること)をすればおもしろいかというとそうでもなく、天丼に耐えられるだけのおもしろさがそもそも、それに備わっていなければならないと思う。だから、COMEDY NIGHTでの狂言は、その役割を十二分に発揮してぼくを笑わせてくれた。いわずもがな、今年のでも。

 

できれば公演の全プログラムをここに書いて、ここがこうおもしろかったんだよと言いたい、それよりもここにCOMEDY NIGHTを撮影したビデオを載せて見せたいと思うのだが、それでは観に行った人が報われないし、しかもここでぼくが文章でそれを伝えようとしている甲斐がなくなってしまう。

いや、そもそもここで演劇のおもしろさを伝えられないと、どこかわかっている気もする。というのは、演劇はなまの芸術だとつくづく思っているからだ。

経験したことがなくても考えてみれば、大勢の人の前で何かをするという場に自分を置けば、それ以前にどんなに練習を重ねてどう動くべきか、何を言うべきかわかっていて、さらにどういう順番でどうやって見せるかという構成も完璧と思えるくらい出来上がっていても、アドリブの要素が入ってくる。数えきれない目なのか、それとも座っている時の姿勢か、それとも人の顔自体か、一体それが何なのかよくわからないけれども、人がそこにいるだけで、こちらは人に応じたことをしてしまう。身体意識とか言うべきかもしれないけど、それは身体であって、意識があることはかろうじてわかるけれども、それがどんなメカニズムで動いているのかは細かくはわからない。

筋肉の動きだとか神経物質の移動をつぶさに観察すれば科学的なメカニズムはわかるけども、演劇をする者はそれをいつでも使いこなせなければならない。仕組みがわかっても、その動かし方がわからなければならない。

だから演劇はなまだ。そしてその中でもコメディ、人を笑わせるというのは、なまであることが一番如実に現れるものだろう。

ダウンタウンの松本さんは「笑いはなまもの」と言っていた。その言葉を発した時期と被っているかわからないが、ガキの使いのトークで、アドリブでやっているようなネタをしていたのを見たことがある。深読みだけど、ほんとにアドリブだったんじゃないか。

どんなに練りに練ったネタであっても、その日観に来てくれたお客さんの気分だとか、あるいは演者側の体調だとか、ひいてはその日がどんな日なのか(もしかしたら暴風雨吹き荒れる中やってきてくれたとか、30℃を超える暑い日に来てくれただとか)、もっと言えばその日は戦争中なのか、それで演者もお客さんも顔が引きつっていたのかどうか……きりがないけど、思うのは、完璧な笑いがないということだ。 

いや、逆に戻って、演劇はそもそもそういうものだから、笑いに限ったことじゃない。

ぼくは小説が好きだが、小説なら作者がいる。今はもう作者の手の内に作品があるなんて古い言葉で、言葉こそが小説を形作るのであって作者と作品の関係はそこまで深くないというのが常識だろうけど、ぼくが言いたいのはそうではない。小説には、その作品の言葉を書き記したある存在がいるということだ。それが作者と呼ばれる。絵画にしても同じだろう。あるいは映画では、小説と絵画における、最終的にその人が作りましたと言えるような極点はないだろうけども(監督とも脚本家とも原作者とも言い難い)、それがカメラから映し出されているという、作品が生み出された瞬間、披露された瞬間は決めることができる。

だけど演劇は、いつ完成するのか? とりあえずは初演の時と答えられる。けれどもそれは外形的な事実であって、演劇作品それ自体の完成の時点かというと、頷けない。さっき言ったように、人前で行う以上、常にアドリブの要素がつきまとうからだ。

 

ぼくはコメディの何を見ていたのか? 朔? 当然、彼以外の演者はいた。もちろん、朔が、そして由谷さんが中心人物となってCOMEDY NIGHTが演じられていたが。

彼らが舞台の上で中心的な役割を演じていたとしても、他にも舞台の上には人がいたわけで、ぼくはそれを見ていた。それぞれがそれぞれの役割を演じて、二人の振る舞いを支えたり、舞台上で進行する物語に欠かせない一つの要素としてちゃんと成り立っていた。関わっていたぼくの友人も少ない時間であるが舞台に上がっていた。彼は上演中の裏方の仕事だとか広報とか制作の仕事をメインにしていたし、演劇は経験したことがなかったけれども、舞台の上で役割を演じていた。

または、舞台上の進行に合わせて音楽が流れたり、プログラムの合間に、次のプログラムの準備による時間を埋めるための映像が流れたり、その度に照明をつけたり消したり照らす場所を変えたり、スクリーン上に映す英語字幕を作ったり、その裏には、それぞれの役割を担っていた人がいた。

当日もらったパンフレットにはCOMEDY NIGHTに関わった人びとの紹介が載っていた。読むと、英語教育事業に携わっていたり、原子核構造にまつわる研究をしていたり、写真と映画学を学んだり、ドイツ語音声学を専攻したり、京セラドームでフェスを開催したり、ニュージーランドの企業で就労経験したり、青少年非行防止自作ビデオコンクールで優秀賞を取ったり、パンフレットから抜き出しただけだが、こういう人々がいたことがわかる。

結局、ぼくはコメディを見ていたし、彼らを見ていた。舞台上にいた人は目に入っていた。それ以外の見えなかった人々は、役割としてそこにいた。だから聞こえたり感じたりしていた。

演劇はだから、演じる芸術、役割が組み合わさってできる芸術なんだろう。

だからこそ、ぼくには小説とか映画のように作者とか表現された時点があるものに比べて、演劇が苦手であり、翻って、なまを味わうことにいつもと違う楽しみを覚える。ぼくはよくDVDとかでお笑いのコントとか漫才を見たりするが、何度も言われていることだろうけど、画面越しの笑いと目の前の笑いはやはり違う。違うとしか言えない。だから、ここでその二つの何が違うんだと言われて、いやね、こうこうこういう違いがあるのだから絶対観に行った方がいいよと言っても、もしそれをこれから書いてしまったら、それこそ画面越しのやり取りに過ぎない。

結局、身も蓋もない言い方だが、観るしかないのだ。なまだから。

 

今週末には東京での公演が控えている。だからネタバレを避けて、上演されるコメディのおもしろさをあまり具体的に言わない方がいいし、さっき言ったみたいに、書いたところでどうも的外れの評価をしてしまいそうで、なまを伝えられるか不安だから、書かないと思うのだが、 それではCOMEDY NIGHTそれ自体の魅力を伝えてない気もする。

 

要は何が言いたいんだと思っている方のためにまとめれば、観に行ってみてほしい。理由は別になんでもいい。コメディが見たいでも狂言が見たいでも友人がいるからでも。きっと、予想は裏切られる。だってなまなのだから。最後に味わうのは常になまだから。

 

 

ツイッターのお気に入りを片付ける。

引っ越しをしている。

持っていくだけの価値があるかどうか、と考えてみると、いらないものが多々出てくる。

どうしようかと迷いながら息抜きにスマホを眺めると、ツイッターのお気に入り(今はいいね!だけど)も案外同じ状況だと気づく。お気に入りにしておきながら、それから一度も見返していないツイートが多い。

この際整理する。

ツイッター上で人のお気に入りをよく覗く。へぇ、こういうことに興味があるのか。意外とそんな方面が好きなんだ、と思う。覗き趣味だから気持ち悪がられるかもしれないけども、お気に入りを誰でも覗ける状態にしているのは誰だと反論する。お気に入りを見たくらいでその人が判断できるなんて傲慢なことは思っていない。気になる人が気になっているものは俺も気になってしまうし、そういうものが意外と俺の感性にどんぴしゃなことが多い。

 

まずは手をつけやすいところから。新しいものから。

 

 二次創作を表すのにそのイラストでいいのだろうか。

 

 知らない言葉が多くて難しい。けど、こんな風に「私」を語ることができるのか。

 

 なるほど。

 

 読む。もはや書評でもない気が。でもうなづくばかり。大塚節炸裂。

 

 記事がおもしろかった。これはとっておこう。

 

 すごいわかる。あの、数年前まで全くわからなかったしむしろ「なんじゃこりゃ!」と小馬鹿にしていた本がふと読み返した瞬間、とてつもない衝撃と共に「めっちゃおもしれぇぇぇ!」となる経験は、なんと言うのだろう。きっと読み解き方がわかったからなんだろう。それまでバラバラに散らばっていたジグソーパズルの、枠組みをようやく見つけたのだ。

そして最近はなんとなく、新しい読み解き方を教えてくれる小説はすごいんじゃないかと思っている。

 

 saosinがepitaphに! やばい!やばい!やばい!やばい!やばい! 一挙両得感ぱない!

 

 すごい。ほんとにインセプション

 

 干されたのかは知らんけども、もはやテレビが数あるメディアのうちの一つなのはわかる。

 

 確かに。この本は気になる。

 

 この漫画は買った。久々に泣きそうになった。墓場まで持ってゆく本の一つ。

 

 こんなサイトが。(ブラウザで)お気に入りしとこう。

 

 横内先生の何年ぶりかの新刊。買いたい。サイボーグクロちゃんも集めたいのに。

 

 あっ、これだ。TLでこのイラストを見たときはびっくりした。サムネイルで見たら何の変哲もないイラスト。これが自動生成ってすごい。原理はまったくわからんのやけど(解説読んでも)。

 

 ほんとだ。真逆。

 

 文脈を辿りたいけど、けっこう前のだからめんどくさいなぁ。でもたぶん時間的にこの順番でツイートしたのでは……?

未来のことは何とも言えないけど、言葉の力があるとは思う。そしてそう言ってくれる言葉は心強い。

 

ああ、あの芸人さんの事件の時だ。たしかになぁ。

 

 ほんとなのかと画像検索してみたら、どうやらほんとらしく、しかもうちの大学らしい。まじか。

この画像のかなしさを今まで人類は味わったことないんじゃないか。

 

 ゲームの画像としか思えない。FFとかの。

 

 そんな感じなのか。確かに考えてみたらそうかもしれない。

 

 リアルタイムでジョーダンは見れなかったけど、コービーを見ることができたのはよかった。

 

 気になる。

 

全然片付かない。取っておいて、またいつか見るだろうと思っていたものが、まだまだこんなにあるとは。

紙とか本とか物としてそこにあると、何がどれだけそこにあるかぱっとわかるけど、ツイッター上にデータとして残っていると、どれだけあるかは数字で置き換えられていて、ぱっとはわからない。記憶にとどまりにくいのだなと気付く。

 

片付けはまた今度にする。

批評ができない。恋愛のように。――『〈批評〉のトリアーデ』――

『〈批評〉のトリアーデ』を読んだ。図書館に行くたびに目について気になっていた本。實重彦と柄谷行人中上健次に、秀実と渡部直己と江中直紀がインタビュー、加えて後者三人による前者三人の批評という、贅沢にも程があるようなラインナップ。現代批評オールスターズ!スマッシュブラザーズのようなもの、俺などが参戦すればすぐさま100%越えでふっとばされる。残機0。

 

中でもスガ(漢字変換むずいのでこれでいく)さんの柄谷行人論がおもしろかった。3章以降の特に柄谷さんに関する部分は、それに関する知識が俺に無さ過ぎるのでついていけなかったけども、前半、というか書き出しからしておもしろい。

「批評は恋愛に似ている。」

それからのめり込んだ。

スガさんは批評と恋愛を重ね合わせる。

「相手を恋い焦がれながらも、永遠になすすべもない余計者の意識にさいなまれて今を生きている者の、無為の営みに似ている。恋する者とて、この恋を成就するための手練手管の幾つかを知識として知らぬわけではないが、今のこの恋にあっては、かつて有効であったかも知れぬ様々な手法も、何ら効果を発揮するとは思えない。万が一この恋愛が成就したとすれば、彼はその体験を反芻して新たな手法をわがものとしたことを確認するか、あるいは旧来の手法が今回も効を奏したことを知るだろう。けれども、それらの認識は全て事後的なものだ。その時、恋愛はすでに終わってしまっている。恋愛のただなかにおいて、恋する者は全てを奪われているのだ。しかも恋する者は全てを奪われながらも、はっきりと目覚めている。恋愛は心地よいまどろみの体験ではない。目覚めながらも全てを奪われた不自由のゆえに、恋愛は『苦しい』ものなのだ」。

好き過ぎて引用し過ぎた。

正直、俺にはこの引用だけで恋愛、つまり批評の本質を言いつくしてしまったと思えてしまう。けれどもスガさんの論を追う。

ある作品の前に立った時、批評はその明証さにたじろぐ。それまでその作品が属していたはずの空間から、歴史から切り離されて、今目の前にその作品、言うまでもなくすばらしい作品が眼前にあることに、批評は黙るしかない。

そんなこと言わずに冷静になって、なんでこの作品はすばらしいんだろう、どうすればこんなにすばらしくなるのか、と考え始めたが最後、その作品はみるみる落ちぶれる。こんなシーンがある、こんな描写がある、こんな表現がある。でも、それはこの作品だけが持つものだろうか? 似ているどころか同じものを持っている作品は図書館にいくらでもいるだろう。そんな風に、あいつのくりくりした目が好きだ、と思っていたけれども、ググればもっとくりくりした目はいくらでも出てくる。やっぱ巨乳なところがいいよなと言うならば、18禁の暖簾をくぐればいい。

開き直って「そんな風に理想の女チェックリストを組み立てるのもありかも」と批評はひとりごつ。いつかは白馬の王子様、二次元の向こう側から彼女がやってくるかもしれない。そう、いつか……ね……。

結局、我慢できずに恋愛に手を出すのが批評なのだ。すべてのチェックリストに✓が入ったところでくそおもしろくもない。その時はきっと新たなチェック項目を探すのがオチだ。俺は目の前のすばらしい作品に出会いたいのだ。

だがしかし、作品の前で批評に何ができるというのか? いくら俺が作品にすばらしいとラブコールを送ったところで、作品はうんともすんとも言わない。クール系どころじゃなくツンデレのデレが抜け落ちたとも違う、というかこっちのラブコールにそもそも気付いていないのだ。それどころか、その人に贈ったはずの告白は、いつの間にか違う恋人を生み出す。私はあなたが好きです。なぜなら優しいから。/それならば、あなたは私が好きなのですか? それとも優しい人が好きなのですか?

 

こんな馬鹿馬鹿しい事態があるか!

そう、批評と恋愛は、いつも馬鹿馬鹿しく感じてしまう、俺には(特にそれを行う視点からでは)。届きもしない声をあげて何がしたいのか。いくら呼びかけても応答はない。ていうか聞こえてる? 不安。ぶっちゃけ、この文章だってスガさんの批評を批評しようとしたから、不安で不安でたまらなく、ちょいちょいうすら寒いボケをかましておどけて不安をまぎらわすしかなかった。スガさんの論を追ったところで、それは、彼女が好きです、なぜなら目が二つあるからです、と言っているようなものだ。そこで、うまくスガさんをかみ砕いて自分の言葉で説明しようとするけれども、それはやはり自分の言葉であって彼女の言葉ではない。彼女はどんどん自分の言葉から遠く離れてゆく。

つまるところ言いたいことなど一つしかないのだから。「好きです」

、ってなんつーふつうの言葉! そんなもん誰でも言えるわアホ! じゃあもっといい言葉は? えぇと……あ、なぜこの作品はすばらしいのか考え始めてしまった。

「恋する者が『あなたを愛している』と相手に伝えようとしても、それがあまりに陳腐な言葉であり、決して相手に届かないと知っているように、批評も『作品』を前にして本当の気持ちを告白することができない。『あなたを愛している』というのが最も切実に伝えなければならないメッセージであるにもかかわらず、である。」

こうして俺は、ただスガさんの言葉を提示することしかできない。僕の彼女はこの人ですと紹介する、ほぉこの人かと彼女を眺める。で? 彼女の魅力はこれっぽっちも伝わらない。

本当は「いやぁ、○○って本当にいいもんですね~」としか批評は言えないのかもしれない。

 いや、もう一度前を向くこともできる、がしかし、「批評が『作品』の外にあるという酷薄な事態は〔中略〕堕落と頽廃に誘おうとする。〔中略〕相手をものにしようとする誘惑である。相手の外にいるからこそ、われわれはそれをものにしようと思うのだし、ものにできるのだとわれわれは考える。〔中略〕これを男根的欲望とも、あるいはメタ言語的欲望とも名づけることができよう。」

私は彼女とセックスをした。

それで?

✓が一つ増えた。

 

それで、どうしたいの?

 

「溺れるはずのない浅瀬で溺れてみたいという誘惑にひたりきること、そして間違って死んでみたりもするかも知れぬそうした遊戯こそが、批評と呼ばれ、恋愛と名づけられるべきだろう。」

 

「しかし、『作品』の全体はついに批評にとって明かされぬままである。それは、恋する者にとって決して相手の全存在が開示されえないのと同じだ。そもそも、全体など存在するのだろうか。しかも、『作品』も恋の相手も、決して完璧でないことは、醒めた意識があらかじめ前提としているのである。」

 

やっぱり、俺はスガさんに告白することはできなかった。スガさんの一挙手一投足を挙げたところで、どこに好きな理由があるというのか(そもそもここでとりあげたのは4章の内のほぼ第1章のみに過ぎず、一挙手一投足も挙げ切れていないのだけど)。

途中、思ったことを全部なげやりに喋ってもみた。でもそれは、彼女がいないところで「こういうところがいいんだよー!」と叫ぶことだ。虚しさしかない。

歴史的、空間的に彼女を置く。いきつくところは、あなたが存在することがすばらしい、ということ。それは人として最高の褒め言葉かもしれない。だけど、それで、あなたはどうしたいの?/別に。「あなたが好きです。ということは、あなたがいるということなのです」と言いたかったのです。

一体、どうやって告白するべきだったのか。いや、そもそも告白のための言葉ってあるのか? 言葉はいつも違うものばかり作る。それは好きな人じゃないって! 俺がいいたいのはあなたなのだ。/で、あなたって私のことなの? 私は私なのに? 私以外私じゃないの。/じゃあ、俺は私が好きです。/けっきょく、あなたは自分のことが好きで好きでたまらないのね。

だから、俺は批評に向いていないと思う。あなたが好きすぎるから。もちろん、批評を読むのはとても好きだ。めちゃくちゃよく出来たラブレターを読ませてもらったということだから。世の中には告白をうまいことする人間がいる。「よろしくお願いします」でも「ごめんなさい」でもどっちでもよく、とにかくよくもまあこう上手く言葉に出来たもんだと感心する。

それでも批評に落ちてしまうのが人間であり俺であろうけれども。批評は盲目。

 

参考文献:大澤真幸『恋愛の不可能性について』

 

 

 

 

 ほぼ2年ぶり。久々。書きたいことがあった。

人生を小説のように眺めること――「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述

 ツイッターを眺めていたら偶然流れてきた、「「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述」を読んだ。

 

 事件そのものはここ1年ほど報道され続けてきたので、その概要は省略するとして、まずはこの意見陳述書の内容をまとめる。

 被告人の渡邊博史は実刑を受け入れることを認めている。ネット上で言われているような、不正な取り調べ、渡邊氏の国籍に関する憶測は間違いであると主張。

 犯行の動機として、「社会的安楽死」を求めている時に、自分の欲しかったものを全て持っている「黒子のバスケ」の作者である藤巻忠俊氏を知り、はるか上の地位にいる彼に一太刀を浴びせようと「人生格差犯罪」を企てた。

 ただ客観的に見た動機と主観的なそれにはズレがあると主張。自分は生まれつき罰を受けており、そのせいで何かに燃える経験をしてこなかった。罰を課した「何か」の代わりとして「黒子のバスケ」を見つけ、その犯行に自分は初めて燃えた。

 逮捕された際に「負けました」と言ったが、あれは自分の人生をギブアップしたという意味。また報道写真に笑顔で写っていたのは、「何か」に罰され続けてきた自分がとうとう統治権力によって罰されることになったことに対する自嘲によるもの。

 この犯行に対して反省も謝罪もする気はない。それなら初めからやらない。謝罪するとしたら、極限状態で謝罪しなければ意味がないと思う。しかし責任は取りたい。それは金銭的損害を負うという意味で。だが今回の犯行による金銭的被害は自分では負いきれない規模であり、そうであれば自分は死ぬしかない。犯人が死ぬことで被害を被った方々の「感情の手当」をしたい。

 自己中心的な理由としても自殺を望んでいる。犯行動機が露呈したことの恥ずかしさ、人生の負けの確定から考えても今すぐにでも死にたい。

 社会復帰するつもりもない。出所したらすぐに死ぬつもり。自分みたいなのが社会復帰しては絶対にいけないし、それを許す甘い社会であってはならない。

 話が少し変わるが、言論の自由への挑戦としてこの犯行を捉えた論評を見かけたが、それは目的ではない。ただこの件が書店に対する脅迫事件で立件されないかもしれないのはおかしい。これは出版史に残る大事件だと思う。

 量刑には不服。半分冗談、半分本気だが死刑を望む。明け透けに言えば「こんなキモい奴は死刑でいいじゃないですか!」という気持ち。

 これからの日本には格差から生まれた妬みを理由にした犯罪が増えるだろう。それを防ぐためにも、自分を「成功者の足を引っ張ろうという動機は利欲目的と同等かそれ以上に悪質」という論理で断罪してほしい。せめて社会に役に立つような形で自分は罰されたい。

 今の日本の刑事司法には自分を罰する方法はないと思う(法律がないといった意味に限らず、刑務所に入って更生するなどの余地はないだろうということ)。刑務所の居心地も悪くなく、趣味、社会的地位、家族、恋人など、娑婆に対する未練もない。命も惜しくない。失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」と言い、これからの日本にはこの「無敵の人」が増えるだろう。日本は対策を考えるべきだ。

 自分は刑罰に処されるべき。客観的には大したいじめも受けていないし、虐待も躾の範囲に収まるものだろう。だが「責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法」をやめることはできない。自分にはなにもない。「死のみが社会奉仕」という言葉がぴったり当てはまる。

 今回の事件は出身である地元の進学校のOBに冷や水を浴びせた気分。最後に率直な感想を言えば、「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」。

 

 これが概略である。私が簡単にまとめたものなので、粗雑な文になっている箇所が多い。実際に陳述書を読むことを薦める。(僕はこちらで読みました→ http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/

 

 端的に言って、彼はこの陳述書を通して自分の死をひたすら意味あるものにしようとしているように思う。始めから終わりまで、自分の死をなるべく大きなもののために使われることを懇願しているように見える。出版史的にも、現在の司法制度的にも、社会の格差から生まれる犯罪のためにも……ただ彼は大義名分のために死にたいのだろう。ただ自分が死ぬということに、彼は耐えられなかったのでは。

 こういう考えが成り立つのも、偏に彼が人生を完結させたかったからだろう。「下の者が上の者を倒す」、このもはや常識と言っていいほど私たちの生活に浸透している物語に沿って渡邊氏の人生の物語は語られている。「罰」によって彼は生まれながら人より劣った地点から人生を始めざるを得ず、その「罰」を与えた「何か」に一矢を報うために彼は「燃え」た。彼が「燃え」ることができたのは、この現代では批判の入れどころのない物語のおかげだろう。

 批評家の大塚英志は『キャラクターメーカー』(星海社新書、2014)のあとがきでこの事件に言及している。大塚は逮捕時の渡邊被告の笑顔を見て、この犯行が彼の自己実現の物語ではないかと推測している。笑顔それ自体の解釈は渡邊被告の証言と違っているとしても、自己実現の物語という目的は的中していたと言えるだろう。

 まさに渡邊被告はこの犯行を通して自己実現する快感を得ていたのではないか。それゆえに「燃え」た。犯行を通して自分の存在が明確していくのを実感していたはずだ。

 彼はどうすれば良かったのか。そう考えずにはいられない。彼の人生を見る視線が私たちのものとそう違わないがゆえに、さらにそう感じる。大学進学を目指してひたすら勉強する学生、貧困撲滅のためにボランティア活動にいそしむ大学生、第一志望の企業に就職するために走り回る就活生……彼らと同じ列に渡邊被告は立っている。内容の違いはあれど、その構造はほとんど同じだ。

 私は彼の異常なほどの自らの人生の客観視に注目したい。彼は自分の生きる人生を客観視することができた。自らの人生にも関わらず、「ギブアップ」「負けた」と相対的に眺めている。社会的に自分の人生が底辺であるとも認めている。そして自分の人生を完成させようとしていた。彼はひたすら、自分を罰することを求める。それによって自分の人生の幕を下ろしたいかのように。自分の物語の結末を飾るように。被害者のため、今の日本の司法制度のため、「無敵の人」のため、……自分の死を意味あるものとして使ってほしいと、何度も懇願している。さらに言えば、謝罪に異常なほどの内面の徹底ぶりを求めている事も関係あるだろう。人生の終わりに大きな意味を求めている。お世辞にもそれまでの歩んだ道のりとは相応とは言えない、大きな意味を。

 だが、「自分の人生を客観視する」、これほど矛盾に満ちた行動があるだろうか。どうあがこうが、人間は自らの人生の外に出ることはできない。いかに客観的に見ることができたと思っても、それは人生の物語として表出しているだけだ。

 人生を物語として見る。これも今や常識と言ってもいいほど当たり前のことだろう。だがそこには危険が潜む。

 ちょうど最近読んでいたベンヤミンの『物語作者』(ベンヤミン・コレクション2、ちくま学芸文庫、1996)に、この事件に当てはまるのではと思う箇所があった。

 ベンヤミンは物語と長編小説(ロマーン)を区別する。ロマーンは物語とは違い、孤独の中から生まれるものであるとし、「長編小説を書くとは、人間の生の描写において、他と通約不可能なものを極限にまで推し進めることにほかならない」。その生の充溢を描写することで、長編小説は生きる者が陥っている途方に暮れた状態を表す。「「生の意味」は、事実、それをめぐって動く中心となるものである。しかし生の意味を問うとは、途方に暮れた状態であることの分かりやすい表現にほかならない」。そしてその生の意味は、小説中の登場人物の死から見て初めて解明される。つまり長編小説の中心にある生の意味は、人物の死、もしくは終わりを以て初めて現れる。

 まさにこの、ベンヤミンが述べたロマーン的思考と言うべきものに、渡邊被告の人生観は支配されている。自分には何もなく、それゆえに何も失うものがない。だからこそ人生をロマーン的に考えやすい。途方に暮れているのだから。そして後は述べたとおり、死もしくは終わりを以てロマーンを完結させるだけだ。彼にとってはそれは自殺、あるいは断罪だった。

 ここまでわかり易過ぎるくらいロマーン的、いやもっと普遍的に、小説のように自分の人生を眺められたこと。それがこの事件の原因だったのではないか。

 大したいじめも虐待も受けていないと彼は認めている。実際、彼に何もなかったはずはない。何も失うものがなかったと一概に言えるはずはない。微かにでも自分が持っているもの、失いたくないものがあったはずなのだ。それが小説のように人生を眺めてしまったせいで、ことごとく無視されたように私には思える。

ツイッターでちょっと見かけた言葉で、前後の文脈は見ていないのだが、この三島の言葉もロマーン的に思える。長編小説の主人公、もしくは語り手は弱者であった方が都合がいい。何も持たない者であればあるほどいい。物語が発動しやすくなるから。「自分に欠けているものを求める」という典型的物語に身を委ね易い。

 しかし、ロマーン的に人生を眺めても、それは人生をもとに自分で作り上げた小説でしかない。人生そのものではない。やはり人生は、生きるしかないのだ。語るものではない。死を以て人生を終わらせたいとしても、考えてみれば、死んだら意識がなくなるのだから、終わりの瞬間など誰にもわからない。「あ、終わった」と思うこともできずに死ぬ。どんなに客観的視点、メタ的視点に立とうともこれは避けては通れない事実だろう。

 惜しむらくは、誰も彼に小説の終わらせ方を教えられなかったことだ。前掲の『キャラクターメーカー』の中で大塚は、自分をキャラクターとして象ること、また自己実現の物語を自らこしらえることの重要性を説いている。私はそれには賛成だ。しかしそれはサブカルチャーの域を出ない。差し詰めの自己の隠れ家を作るのには有効だろうが、それを超えたロマーン的自己を解決する手段にはならないだろう。そのためには物語の終わらせ方、「-了ー」の後にどうしても残ってしまう自己の処理方法が必要だ。「その後はあんたの言っている通り、生きるしかないじゃん」と言われたらそれまでだが。

 

 余談だが、やはり司法制度を死ぬ手段と考えるのは明らかに間違っているし、そうあってはならないと思う。司法の第一の目的は社会秩序を守ることであって、それに死を以て奉仕したいというのはおこがましい。「秩序を壊すことが秩序を強化する」、そんな論理はまかり通してはいけないだろう。彼が司法に求める成功者云々の論理よりも。

 彼によれば日本にこれから増えるであろう「無敵の人」、そしてその可能性を秘めている人に言いたいのは、死は終わりではないということだ。終わりと表現する権利を持っているのは死ぬ当人ではなく、周囲の人物だ。繰り返しになるが、あなたは死ぬ時に「死ぬ」とは感じないし、そう思うことは不可能だ。そして服役を社会的死と捉えてもいいが、刑務所内でも生きていかなければならないのだ。生きることは終わらない。人生に区切りをつけても、やはり私たちは生き続けるしかないのだから。

 

(それにしても、どの時点で大塚さんは気付いていたのだろう。自己実現の物語だということに。怖いくらい渡邊被告の意見は物語的だった。

興味がある人はぜひ『キャラクターメーカー』のあとがきだけでも読んでみてほしいと思います。星海社からは最近出た本なのでまだどこの本屋にも置いてあるはず。物語の創作論としても読めるし、アイデンティティイデオロギーにも関連して読める本です)

「20歳超えたらあとはずっと余生」 ――甲本ヒロト(ザ・クロマニヨンズ)×志磨遼平(ドレスコーズ)対談 by ナタリー―― 

いよいよ2013年も終わる。前回の更新から2か月も経ってしまい、その間も何か書こうという思いはあったのだけれど手が進まなかった。ちょうど年の暮れのいい時期、みんなが今年を振り返る時で、その流れに乗って久々の更新をしてみる。

 

この記事は10月の終わり頃に見つけた。

ヒロト ロック好きなやつはみんな20歳超えたら余生だよ。もうずっとそれが続くだけだもん。レコード聴いて、気が向いたら歌って。

志磨 そうですね。

ヒロト なんの荷物も背負わんでよくて、好きなことやればいいんだよ。それができてない人はたぶんね、免罪符が欲しいんだよね。

志磨 免罪符?

ヒロト こんな幸せだとバチが当たっちゃうと思ってるから苦労しようとする。なんか背負いたくなるんだね。背負うという娯楽だね。

志磨 日本人は浪花節みたいの好きだから。

ヒロト ただなんとなくやっててヘラヘラしててうまくいってる人のことを認めるのは悔しいんだと思う。

志磨 初めっからできることがあるっていうのを誰も信じてくれないですね。

http://natalie.mu/music/pp/dresscodes04/page/4 ナタリー、ドレスコーズ特集より)

この「20歳超えたら余生」の言葉が今も頭に残っている。実際、20歳を過ぎたあたりに同じことを感じた。「ああ、きっと俺はこのまま生きていくんだろうな」と、先が見えた。働いたり結婚したりと日常生活は当然変化するだろうが、自分のこの頭の中、精神やらはきっとこのまま変わらず生きていくのだろうと悟った。別にそれは悲しいこととは思わない。もうこれ以上俺は変化しないとか、新しいことはこの先何も待っていないというわけではないからだ。自分の底を見つけたようなものだ。これ以上は何もない。無理に掘り下げようしても無為に終わる、そんな鉱脈の限界に突き当たった。これより先にできることは、鉱脈を生かすことしかない。それは働くことで生かされたり、文章を書いてそれを表現したり、本を読んで新たな生かし方を見つけたりと、とにかく原料はもう見つけてしまったわけで、後はそれをどうするかなのだ。ほとんど余生の過ごし方は決まっている。

この認識はそう的外れでもないらしい。小林秀雄岡潔の『人間の建設』(新潮文庫)の中で、小林秀雄ドストエフスキーに対して、あの人は20歳を過ぎてからは振り返ることなく、ただ走り抜けるように小説を書いて生きていったと言っている(本が手元にないので曖昧。たぶん全然違うことを言っているだろう。しかし20代を過ぎてからはそのまま生きていった、というところは確かだ)。小説を書くことしかできなかったし、それがしなければいけないことだとわかっていたのだろう。社会学者の大澤真幸は、自分が考えているのは20代に考えたこと以上のものではないと言っていた。これはどうやら研究の分野では頷けることらしい。若い時に考えたことを年齢とともに深めていくということだろう。

免罪符について言えば、いつも自分の辿り着く場所を未来に置いておくのはひとつの免罪符なのではないかと思う。目標を持ち続けることで幸せにならずに済むのだ。常に自分は何か欠けており、それを補わねばならない。明確な目標でなくとも、何歳には何歳らしくあろうと理想を持ち続けることで、今の不幸を肯定できるし幸福にならずに済む。自分について言えば、幸福ほどどう振る舞えばいいかわからない時はない。幸せをどこかで避けているところはある。

中島敦の『狼疾記』の中にこういう話がある。教師である主人公の同僚が主人公に対して言った話で、人生を螺旋階段に喩えるのだ。一周すると一つ下の階の時と同じ風景が見える。上の階の方が微かに高いところから風景を見ているのだが、その違いはほとんど無い。これも上に書いた20歳を区切りとする考えに近いものだろう。ある時から風景は変わり映えしなくなる。徐々に高くなっていくがその差異は僅かなものだ。

 

 

働く前に。社会で必要な考え方。―『自分のアタマで考えよう』 『採用基準』―

いよいよ就職活動が始まろうとしているが、その前の準備にいい本はないかと探して見つけたのがこの二冊。どちらも社会で働くために必要な考え方が分かりやすく書かれている。

 

1.「どこで働くか」より「どう働くか」―『自分のアタマで考えよう』(ちきりん著、ダイヤモンド社、2011)

一つ目は『自分のアタマで考えよう』。著者のちきりんさんはツイッターで知った。“おちゃらけ社会派”と称して社会問題を分かりやすい切り口で説明している。ブログとツイッターで情報発信しており、どちらもおもしろい記事が多い。

ツイッター→ https://twitter.com/InsideCHIKIRIN

ブログ→ http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/

本書の内容だが、タイトルから思考法について何か教えてくれるのかと期待する人が多いと思うが、読んだ限り、そこまで目新しいことは書いていないと思った。むしろ人によっては「こんな当たり前のこと、わざわざ言わなくても……」と感じる人も多いと思う。

しかし考えてみると、集団で行動している時、必ずと言っていいほど「そこは自分で考えてやってくれよ」と思う時があるはずだ。起こり得るリスクや利益を予想して、すべきことを論理的に導くことは、一見当たり前のようでいて実際そうはいかないことが多い。「まあ考えればこういうことになるだろう」と思って他人に任せていると、予想外の結果が飛び込んでくることもある。

本書はそういう「当たり前」と思われている思考を丁寧に解説してくれている。知識と思考の区別・理由や原因の問いかけ・可能性の列挙――文字にすると「そりゃそうだ」と言いたくなることだが、それを他人に説明したり自分で確認する時には自然と言葉にしにくいことだ。だから本書を読むことで、自分の思考についての反省、または思考法の共有に役立つと思う。「自分はちゃんと考えられているか?」と思えば、この本を読むことで確認ができる。何か気付くことやはっとすることがあれば、そこが自分の思考に足りなかったところだと分かる。ミスや失敗の多い同僚に「考えること」について教えたいときには、本書の内容はとても参考になる。本当に丁寧に書かれており、大抵の人は理解できる内容だから思考法を教えるには最適だ。他人と本書の内容をもとに「考えること」の反省、吟味もできると思う。

 

僕が一番印象に残っているのは、情報よりもフィルターが大事という意見だ。現代では就職活動をしている人々にとって企業研究は必至のことだろう。希望する業種を研究し、企業の売上高や利益率を徹底的に調べる。それは確かに生活に安定を求めようとする昨今では有力な情報ではある。しかし、そのような数字に現れる情報だけでは希望する職業への適性は判断しにくい。自分にその職業が合っているのかどうか、仕事に全くついていけないことはないか、そういった疑問は数字だけでは解決しきれない。

そこでちきりんさんは「フィルター」を使うと述べる。それまでの自分の外部に求めていたフィルターを、さらに自分に近づけるのだ。先ほどの企業研究で得られる情報は、「売上高が高ければいい企業、低ければ悪い企業」「利益率が高ければいい、低ければ悪い」といった、荒いフィルターで取捨選択されていると言える。情報選択の基準が曖昧で、欲しい情報が入ってきにくい。これが欲しかったんだよ!、と要求にちょうどはまるような情報はもっとフィルターを吟味しなければ得られない。その時に必要なのは、自分が無意識に採用しているフィルターを明確にすることだ。自分の選択の基準を表現しようとすると、意外に難しいことが分かる。実際上はちゃんと選択できているのだが、それを相対化してはっきりと自分の目の前に置こうとすると上手くできない。しかし、それこそ自分の選択に必要なフィルターだ。就職活動での情報収集でも、このフィルターが一番役に立つ。それではどうやって自分のフィルターを明確にすればいいかというと、やはり行動あるのみ、と言える。一つの業種・職種に限らずに多種多様な仕事を経験することで、自分のフィルターが徐々に明らかになっていく。考えているだけでは見つからなかったことが動くことで見つかることは多い。本書によると、アメリカの大学生は1年生の頃からインターンを始めて職業経験を積んでいるそうだ。ドイツにおいては、10年近くも学生を続けてインターンを何個も経験し、30歳くらいで最初の職業を決める人もいるらしい。自分のフィルターを見つけるということが海外では重要視されており、それは経験によって見つけるものだという認識がある例だろう。

 

フィルターの話に付け加えて、ちきりんさんの、このつぶやきが気になった。

この考えは働くことに関する僕のフィルターを少し変えてくれた。確かに「どれだけ稼げるか」より、実際は「どうやって稼いでいるか」を見た方が会社選びには有用じゃないかと思う。今は結果だけを見ても、この先もその結果が続くかと問われては不安になる社会だ。その中では結果より手段、方法に目を向けた方が良いだろう。1,2年前に話題になった『20歳のときに知っておきたかったこと』の著者であるスタンフォード大学教員のティナ・シーリグさんも、担当授業で「5ドルを二時間でできる限り増やす」という課題を学生に課していたと聞いたことがある。これも働く上で手段を重視することの表れだと思う(もっともシーリグさんは起業家対象やイノベーションの授業でこういう課題を与えているので、彼らにのみ当てはまるのでは、とも言えるが)。

 

もうひとつ、もはや本の紹介とは関係のないことになってしまうが、ツイッターで見つけた面白いつぶやきをいくつか。

これらのつぶやきは2013年9月14日に行われた、ちきりんさんの新著『未来の働き方を考えよう』のソーシャルブックリーディング(いわばweb上の読書会)の中でつぶやかれたもので、その中の僕が面白いと思ったつぶやきだ。

「好きなこと」と「得意なこと」を別に考える視点は新鮮だった。労働初心者の僕はそこを混同してしまうことが多い。けれども社会の中では当然、「得意なこと」の方が求められる。働くことを手段として見たら、仕事選択の基準は得意かどうかにするのが良いだろう。この二つを分けないと仕事一辺倒になってしまう。それは精神的につらいことだと思う。ただ、『スラムダンク』の作者である漫画家の井上雄彦さんは他の作品『バガボンド』の中で、高校生の頃にあえて漫画家の仕事を選んだと言っている。好きだからこそ今まで続けてこられたという。そのおかげで、長年漫画家の仕事を続けてこられただろうし、今や漫画の域を超えようともしている。井上さんの中で漫画は、昔のような好きなものというより、もうそこから離れられないような、自分と一体となったものになっているのだろう。好きと得意の二極を超えたところまで来ていると思う。

 

2.「リーダーシップ」じゃなくて「Leadership」―『採用基準』(伊賀泰代著、ダイヤモンド社、2012)―

 もう一つは伊賀泰代さんの『採用基準』。友人から「けっこうおもしろいよ」を薦められたので読んでみた。

著者は元マッキンゼーの社員というバリバリのキャリアウーマンで、現在は退職しインタビューサイトを運営している。

こちら→ http://igayasuyo.com/

 

内容はタイトル通り、かつて就いていたマッキンゼーの採用基準について述べている。世界中から金融関係の優秀な人材が集まるマッキンゼーは一体どんな人物を求めているのか、その詳細が書かれている。そして著者はまた、マッキンゼーで求められる人材は現在の日本でも求められるものではないかと言う。

 

その採用基準を僕が一言でまとめれば、「leadership」である。

本書の中で著者は、日本ではマッキンゼーが求めているのはとにかく優秀な人材であるという誤解がはびこっていると言う。この場合の優秀とは、知識や思考法などの分析の道具を豊富に持ち、ケース面接(特異な状況を持ち出してどう対応するかを見る。「富士山を動かすにはいくらお金が必要ですか?」など)で定式通りに問題を解く能力である。それは学校の中での優秀さに近い。与えられて問題に対していかに早く適切な処置を施せるか。その早さや知識量によって優秀さが計られる。

しかしやはり、それは学校教育までの話である。著者はビジネスの世界で求められる優秀さはそうではなく、「リーダーシップ」であると述べる。マッキンゼーは日本式のいわばお利口さんではなく、将来のリーダーとなる人物を求めているのだ。ただ、この「リーダーシップ」を、これまた日本に合わせて「他人に適切な指示を出して、集団を引っ張っていく能力」と考えるのは少し違う。確かにそういう能力も含んではいるが、この言い方だと「リーダーシップを持つ者以外は単にその人に従えばいい」という考えを生みやすい。そうではなく、マッキンゼーの言う「リーダーシップ」は、「目的を達成するために、集団をけん引する能力」である。目的の達成のために自分は組織の中で何ができるか、それを理解して実行する力と言える。他人に指示を出すのも、与えられた仕事を忠実にこなすのも、マッキンゼーからすれば「リーダーシップ」の範疇なのだ。

なぜ「リーダーシップ」にそのような意味も含まれるのか。その理由として、組織の形態が上から下へと連なるピラミッド式ではなく、横に広がるアメーバのような形態であることが挙げられる。ピラミッド式ではリーダーシップを持つ者は当然上部に限られ、先程書いたように、下部の者はただ従えばいいという形になる。しかしアメーバの形では、誰が上か下かという区別はなく、皆が同じく一つの目標について考えている。目標のためにできる最善策は何か、それをいかに実行するか、そういうことを決してリーダーシップを持っている者だけが考えるのではなく、集団全員で考える。そして導き出された策を分担して着実にこなしてゆく。これらをまとめて「リーダーシップ」と呼んでいる。しかし、日本でそんなことをすれば意見の衝突が起こってしかたないと言うかもしれない。誰か一人がばしっと決めてくれた方がいいのでは? 確かにその方が楽ではある。だが「リーダーシップ」には独善的な要素はない。達成すべきは目標であって、議論の解消ではない。「リーダーシップ」を持つ者ならば、自分の意見がとにかく通ることよりも、目的の達成に有益かどうかを重要視する。本書では、他人の意見の方が優れていると思った矢先、まるで最初からそう考えてましたというが如くその意見を述べる同僚が挙げられている。意見が採用されることよりも、集団の利益につながるかを見ている例だ。

 

 こう考えてくると、「リーダーシップ」は今までの和製英語の意味から離れて、原語の意味に近づいていると思う(元が英語なのだから当たり前ではあるが)。アメーバ状の組織においては皆、自分が組織を引っ張っていく意識を持っている。組織のために一番有用な案を考え、それを他の組織の構成員と照らし合わせ、さらに良い案はないかと吟味していく。それはまさに集団を目的達成のために「引っ張っていく」=“lead”する力、すなわち“leadership”を表している。原義から考えれば、リーダシップは集団の内の人々が当事者意識を共有することとも言える。組織の一端を担っていること、組織の利益のために何ができるかを考えることなどは、例えれば自分の乗っている船を前進させるためにオールをこぐことだ。当然、オールをこぐ人数は多い方がいい。掛け声をかけたり方向を見定める人も必要だが、まずはオールを力いっぱいこぐという基本は達成しなければならない。オールを握っている意識、それが“leadership”を言えるかもしれない。

 

 

 

 こう、理論は書けても、結局仕事できなかったら、だめだめですよね……これからこの文章に追い越されぬよう努力しないと。12月1日が始まりです。あと、後半のleadershipについては僕の解釈です。本書には書いていません。けれどこれは中々的を得ているのではと思います。『採用基準』とはいうものの、中身はほんとリーダーシップの話ばかりです。タイトルそっちのほうが良かったんじゃないかと思うんですが、印象を考えたらやっぱり『採用基準』がいいかもしれないです。

論理的にしゃべる男の虚しさ ―『愛のおわり』―

『愛のおわり』(パスカル・ランベール作、平田オリザ日本語監修、平野暁人翻訳)をナレッジキャピタルで見てきた。大学生の特別優待が設けられていたので通常の半額という安さで見ることができた。財布にもうれしいし、初めてオリザさんの演劇を生で見るので少し緊張もあったが、値段のおかげで気楽に見れた。

いただいたパンフレットによるとオリザさんとパスカルさんは親しい友人のようで、経歴もとても似通っている。二人とも同じく劇作家なのはもちろん、プライベートでも同年に離婚の経験があるそう。しかも結婚相手の職業が女優ということまでいっしょという重なり。偶然にしてもすごい。はっきりと書かれているわけではないが、この『愛のおわり』はパスカルさんの離婚経験が元にされている様。全く同じと言ってもいい境遇を経験したオリザさんは、『愛のおわり』の台本の修正作業の際に幾度も寂しさを感じたらしい。確かに他人事とは言えなかっただろう。正直僕もタイトルを見た時から他人事では無かった。まあこの話は今は置いておく。

 

あらすじはというと、観ていない人の楽しみを削がない程度に言えば、男女の別れのもつれ話である。しかし単純なもつれ話ではない。いや、言ったばかりで否定してしまうが、大きな目で見ればもつれ話なのだが、舞台上の男女の間には数えきれないほどの糸が絡まり合っていて、観客は単純なもつれ話とは思えないだろう、ということ。別れ話ということはどちらかが別れようとし、片方は残されるわけだが、その区別は言葉ではっきり言われるわけではない。観ていれば何となく二人の関係性が見えてくるのだが、この『愛のおわり』のセリフは関係性を何度も何度もひっくり返す。「あれ、そうじゃなかったの?」といった疑問が何度も出てくるのだが、最後まで見ていると、関係性が二つのものの間にあるものではなくて、ただひたすら回転し続けるもののように思えてくる。ぐるぐるぐるぐる、もしかしたら人によっては、「これって別れ話だったっけ?」と感じる人もいるかもしれない。

 

この戯曲の特徴に、男女の発話がはっきり区別されていることがある。それぞれセリフはとても長く、会話というよりは語りの応酬であり、男女の発話がはっきり区別されている。

劇の筋とは関係ないが、この発話の明確な区別のおかげで、観客の反応がよくわかった。ここから書くことは他人の私事に口出すようで申し訳ないが、それでも言いたいことなので許してもらいたい。ごめん。

僕の両隣は若い女性が座っていたのだが、やはりというか、男女の別れ際の話をしているわけなので、男のセリフがひたすら続いていると次第に両隣の女性が腕組みをし始めた。両脚は椅子の近くにそろえて止めたまま。舞台上を見る僕の目の端にはしっかりと、長いセリフを言い続ける男の顔をじっと見つめたままの顔が見えた。絶対に怒っているだろうなと直感した。そして今度は代わって女側のセリフの番になるのだが、すると組まれたままだった腕は自然に解けて、次は僕の前列に並んでいる中年と見える男性たちがどことなくそわそわしだした。背筋を正したり、首を傾けたり。ああ、きっとこういう言い合いは今までの人生で何度も、いや今も家庭で経験してるんだろうな、と勝手に妄想した。決して僕も傍観者でなく、女性側のセリフを聞いている時は正直、正座して聞きたい気分だった。「はい……はい……すいません……そうですね、確かにそうです……あっまだ話続くんですね……はい……」。頭はずっと上がらなかった。

 

 上の男女の反応からちょっとわかるかもしれないが、『愛のおわり』は男女の語り方の違いを嫌と言うほど前面に出している。いかに男と女は異なった語りをするか。

男は自分の本心を抽象論で囲い込み、喩え話で女を追い詰めようとする。戦い、血、関節、乳房……。しかし、男からしたら具体的な話をしているつもりなんだろうが、それは本心を取り囲む抽象論から生み出された例であって、二人の現場に必ずしも当てはまらない。女を目指して発されたはずの言葉は身体にも心にも当たらない。まさに心が動かせない。舞台上には二人の演者が立っているはずなのに、男の言葉は少しも女に届くことなく空間を虚しく漂うだけなので、いつの間にか男が一人芝居をしているようになってくる。きっと彼の中にはちゃんと一つの道が見えているのだろう。しかしそれは先に見える到達点から逆算するように今の足場まで無理矢理引っ張ってきた道であり、実際は道といえるものなどなく、二人の間にあったはずのありとあらゆる記憶の糸が絡まり合っている。何の理由づけも、補足説明も加えずに、本心といえるものが望む行動をひょいとしてしまえたら男はどんなに楽かと思う。それができずに男はひたすら壁のような抽象論を論理的に語る。しかし、厳密に、論理的に語れば語る程、男はどんどんアホらしく、弱々しく、虚しくなっていく。男の唯一といっていい武器が恋愛ごとでは全く意味をなさなくなる。

女は上記のことを最初から見抜いていたかのように、まずは男の的外れな語りを封じ込める。お前の抽象論はひとつも当たっていないし、喩え話は何一つ私には当てはまらないと言ってのける。そして男のその論理的な口調も非難する。感情が抑えつけられているその語り口を。感情のままに女は言葉を続けるが、それは感情論といった言葉が意味するような支離滅裂な論ではなく、むしろこの恋愛の場では感情論ほど論理的で説得力のある話はない。恋愛の舞台上ではある意味、もっとも客観的な見方になる。また、「恋愛の舞台上」と今表現したが、ここには二つの意味がかかっている。一つは『愛のおわり』を演じる舞台の上ということ。話の筋からいって恋愛の舞台と表現するのは正しい。もう一つは、恋愛一般の比喩としての舞台である。実は劇中でそのようなことを示すセリフがいくつか出てくる。登場人物として二人はそのことを踏まえているし、作者のパスカル・ランベールも、日本語監修をした平田オリザもおそらくこのメタの意味をわかって作品に込めているのだろう。いわば舞台の上では男は一から脚本を作っていかなければならない。登場人物、状況、セリフ。恋愛の劇を演じるためにありとあらゆる設定を自分で組み立てる。しかし一方女性は、まるで事前に台本を受け取っていたかのように演じる。たとえ舞台経験がなくとも、大まかな筋や基本的な演技論は踏まえている。それに乗っ取って恋愛を演じればいい。

 

舞台の上でお互いの本心がぶつかり合う。しかし本心からの行動は決して単純明快ではない。自分の思うがままに動くこと、それが頭では分かっていようと現実ではどれだけ実行し難いことか。明確なすることがあって、それを達成するのに困難があるということとは違う。すること自体が明確ではないのだ。『愛のおわり』は確かに別れ話だ。しかし二人は本当に別れようとしているのか? そういう疑問が自然と浮かんでくる。論理的に説得しようとしたり罵詈雑言を浴びせずに、別れるなら別れればよいのに、なぜ言葉を交わし合うのか? 別れたくないから。別れる行動のことを指してるわけではなく、心理的に、精神的に別れたくないからということだ。今ここで、二人の恋愛関係が解消されることを、二人が別れることなく、今まで通り続いてきた道の上に起こしたい。だから二人は話す。論理的に語る。罵倒する。二つの意味が重なっている「別れる」の言葉を巡って二人は言葉を交わし合うのだ。そのために二人の関係はこの二つの意味を行ったり来たりする。相手を突き放すようでいて、自分と相手の距離はどんどん近づいていく。舞台上の動きでもそれははっきりわかる。別れ話をしている二人の距離は決して一方的に別れることはなく、近づいたり離れたりの繰り返しだ。二つの意味の間で右往左往する姿がはっきりと現れている。

 

それにしてもどうして、男は別れることに意味を持たせたがるのかと思う。言葉を増やすほどに別れること自体から離れていくようになる。むしろ逆効果で、別れについて語れば語る程、相手に執着していってしまう矛盾が起こってしまう。どうも、今そこの、二人がいる場のみの話ができない。夢やら本当の自分やら、何かしら大義名分を立てないと決断ができない思考なのか。女のように、恋愛と一体になったような振る舞い方ができたら夢のようだろう。男は全く使わないと思うが、女は「運命の人」という表現を使う。この運命も、恋愛における戯曲のようなもので、女は運命という言葉からいくつもの物語を瞬時に作りだして、それに沿うことができるように見える。

 

最後に一つ、フランスでも日本でも、恋愛ごとにおける殺し文句は同じだ。決して相手を惚れさせるのでなく、文字通り死に至らしめるような言葉。まずは「あなたは、自分が一番好きでたまらないのね」。ぜひ「愛のおわり」について悩んでいる女性がいたら、この言葉を使ってみてほしい。確実に男性は膝から崩れ落ちるだろう。抽象論や具体例が全てあんたの範囲をこれっぽっちも出ていないのよ、全部保身のためよ、と嫌というほどわからせることができる。もう一つ。男性が覚えていないような些細な行いを羅列する。「いっしょに公園行ったよね、私は早起きして、サンドイッチ二つと、キャベツとシーザードレッシングのサラダ(これほどまで具体的な方がよい)作って、あなたが1時間後に起きてきて、寝ぼけながらカボチャのスープをすすって――」どんな些細なことでもいい。二人でそれをしたという単純明快な事実ほど別れ際の男の精神をずたずたにするものはない。恋愛の意味しかこめれられていない行動に男は手も足も出ない。抽象化しようがないのだから。つまるところ、こういう状況で女性が発する言葉はすべて、生身の拳とは比べ物にならない打撃を与える。